朝、部屋の窓から小雨降る外を見る。 朝食のとき、みんな寒くて眠れなかったとぼやくことしきり。 私はトイレに何度も起きたが、「寒くて眠れない」ということはなかった。 ただ、下痢気味のため、おかゆと少々のおかずだけにした。 百草丸を3錠、水は危険なので、おかゆで飲む。 |
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北京、西安と4日間、朝食を食べてきたが、なぜかゆっくりと食べてこなかった。 今日は中国の典型的な朝食について、献立を紹介してもらった。 |
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主食は3種>おかゆ、中華パン、中華揚げパン>毎日同じものではなく、日によって変える。 飲み物は2種>白い牛乳、茶色のコーラ(中国式にコーラとはおかしいよ!) おかずは5種>野菜、つけもの、・・・・・・。たまごは高いそうで、一般家庭では食べられないという。 |
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昨日、たくさん土産買ったので、元がない。 ホテルのフロントで2万円兌換する(3回目) レイトは20.987円/元とさらに円が減った。 |
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今日最初の訪問先へ向う途中 | |
工場見学
午前は成都市内の自動車工場を見学。ここは1.5トントラックを生産していた。 今回の訪中団員の会社に、この会社から研修生がきているので、大歓迎でした。 ただ、雨降り後で、工場内は舗装されていないので、足元がグチャグチャ。 生産ラインは人力による搬送であった。 |
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市内から60Km離れた「都江堰」へ向う途中。 鉄道成都駅のロータリーで大きな酒の看板をみる。 |
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人と自転車と車が入り乱れて、たいへんな混雑状態。なかなか前へ進めない。 | |
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都江堰はかなりの郊外にある。そこまでの街道を紹介します。 | |
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人里を離れると、空から見た「菜の花畑」がずっと続く。 | |
再び人家が現れる。屋根には瓦が! | |
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再び菜の花畑の街道を両側に見ながら走る。 墨絵のような街路樹が延々と続く。 |
途中、三叉路の正面に2人の立像が立っている。 彼らは2200年前、成都周辺の田畠を潤すための 治水施設「都江堰」を作った「李親子」像 |
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15年後の2008年5月12日、 四川省汶川で起こったM8.0の大地震で被災した人々がここに避難している。 |
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どこまで行っても街並みは変らない。北京も西安もみんな同じ。 しかも、人と自転車と車の同時通行も同じ。 |
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さらに、3輪自動車、サイドカー付オートバイ、自転車タクシーなどなど縦横無尽に走り回っている。 | |
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昼 食 | |
すさまじい爆竹の音は結婚式だ!が、新郎新婦の顔は見られなかった。 | |
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ウエートレスが並んで笑顔でお出迎え(^O^) 中国語の挨拶を教えてもらい、しゃべるがなかなかピンと通じない。 |
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都江堰
都江堰は市の北西60Kmほどの「岷(山偏に民)江Min Jiang」の上流にある大規模な水利施設。 紀元前3世紀の秦代に蜀郡の官吏「李ヒョウ(氵さんずい偏に水)」が息子とともに、氾濫を繰り返す岷江の治水に注力した。工事は李親子の死後、数世紀も続いた。 |
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都江堰付近 |
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どこから入ったのか解らないが、南方特有のきらびやかな寺院を見ながら目的地「都江堰」へ進む。 | |
左から、侯さん・傳さん・劉君 | |
階段通路の両側にある門の上にはこのような石碑がよく見られる。 四字熟語のようであるが、日本の辞典には載っていない。 |
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廊下に「深淘灘低作堰」とある。意味は? | |
究極の屋根芸術 | |
李ビョウ記念館で都江堰の概要について勉強する。 ここには模型や昔の風俗や地形などが解説されている。 |
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傳さんが指差しているところに我々はいる。これから、あの橋を渡る。 | |
少しずつ下って行く。 | |
二王廟は李親子を祀っている。 創建が南北朝(紀元500年ころ)でその後、清代(1800年頃)に再建されている。 |
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階段の両側に虎と龍の文字が墨書きされている。 | |
どうやらここが出口のようだ! | |
出口を出ると前方下に川が流れている。 ふと下を見ると、子供がしゃがんでいるところを発見。オシッコだーーー! みんな大はしゃぎでオシッコの現場を見物。でるぞー!でるぞー!でたーーー! あんまりわーわー騒ぐので、子供に上目遣いでにらまれた。 終ったら、そのまま立ち上がって、お母さんのところに走っていった。 中国の赤ちゃん用のパンツはお尻が開いていて、しゃがむと開いてそのままオシッコもウンチもできる。名前は「開襠褲」kai1 dang1 ku4>カイダンクという。 |
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対岸の起伏のある丘にはロープウエーがある。 | |
岷江にたどり着いた。ここに、「安瀾橋」(あんらんきょう)である。 この橋は宋代(1100年から1200年頃)に創建された。 |
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橋を渡り、中洲を堰のほうに歩く。堰はここから上流500mくらいのところにある。 途中、ゴミ箱や観光用のらくだが何頭かいた。 |
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ここから都江堰全体が見えます。堰は段階的にいくつもある。ここが第1の堰です。 左側が本流で、右側が灌漑用の水路で、田畠に送られる。今の時期は灌漑用が多くなっている。 |
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いただいた写真 |
我々は右上の山から「二王廟」を通り、「安瀾橋」を渡り、ここ都江堰まで歩いてきた。 |
帰り道にエアーライフル射撃場があったので挑戦せり。前方の布に貼り付けてある風船を割る。 1回2元という法外な料金に思わず大きな声でクレームつける。 日本から来た賓客だ!とか言ったが、負けてくれなかった。 |
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ロープウエー 丘の中腹に点々と見えるのがゴンドラです。 |
ここも堰です。目的に応じて切り替えるようです。 米作り時期には田んぼの方向へ、それ以外は住宅地方向へ。 |
堰を切り替える作業所 | |
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向うにロープウエー | |
武侯祠
三国志の主役「諸葛亮(孔明)」(生誕181年)と、主君「劉備玄徳」(生誕162年)を祀った「君臣合廟」 劉備が「三顧の礼」で諸葛亮を軍師として招いたのは劉備48歳、諸葛亮27歳のとき。 諸葛亮は劉備を「昭烈皇帝」として稜を造り葬った。 その諸葛亮も234年、五丈原で戦病死する。53歳だった。 武侯とは諸葛亮(孔明)のことで、武侯祠とは諸葛亮を祀って建てられたもの。 |
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武侯祠の入口正面上部に「漢昭烈廟」と書かれた横額が掲げられており、ここが「君臣合廟」であることが解る。 | |
時刻は閉館間近の16時頃。 折角やってきたのであるから、関係者を説得して急いで拝観することに決定。 |
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入場します。 | |
入場門を振り返る。 | 文臣廊>文官の紹介 |
文臣廊に入って、いきなり長大な漢文が目に飛び込んできた。 楊さんが声高に説明し始めたが、さっぱり解らない。 まずはWindowsフォトストーリー3を使っ たビデオファイルをご覧ください。岳飛 (長さ45秒、サイズ558KB) 但し、写真サイズが320X240なので画面が大きいと画像がぼやけます。
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現物は左から右に
流れている。それを分割して上から下に掲示します。 |
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なぜ、私が「岳飛」を知っているのかというと、1989年5月から1年間、私の職場に研修生としてやってきた、中華全国青年連合会青海省副主席の「李津成」から聞いたのでした。 「岳飛」はほとんどの中国人が憧れる「愛国の将」
南宋の武将。字は鵬挙。高宗に仕え、江淮の賊を討伐し、「精忠岳飛」と記した旗を受けた。 |
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私が研修生「李津成」から教えてもらったのは、 「満江紅」man3jiang1hong2の「怒髪衝冠」nu4fa4chong1guan1であった。
下の「満江紅」はどちらも、李津成が書いたものです。
左側は簡体字ですが、右側の正式なものは昔からの文字(繁体字)です。 |
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以下に読み方を紹介しましょう。 |
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怒髪衝冠
nu4fa4chong1guan1
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意味はしばらくお待ちください。
とりあえず、単語の意味を調べてみました。
これで全体を推測してください。無理かな(^レ^;
怒髪衝冠
怒り心頭の詩
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回廊には左右に官吏の塑像が並んでいる。右側が文官、左側に武将である。 | |
途中で今回案内役の楊さんと同姓同名の文官がいる。位は当時の成都市長のようです。 | 続いて、今度は傅さんの祖先がいた。照れ笑いしながら、記念写真。 |
続いて、左右に関羽と張飛を配した、劉備玄徳の塑像が現れる。 | |
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続いて、諸葛亮の「武侯祠」に入る。 正面奥のオレンジ色に輝いている像が諸葛亮である。 |
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「一枚の羽毛が永遠に漂う」と言う意味で、ここの「一羽毛」とはもちろん諸葛亮のことです。 | |
諸葛亮殿入口の伽藍に「名垂宇宙」の横額が眼に留まる。 「諸葛亮の名は宇宙に轟き渡っている」という。至言である。 |
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さすがにここには警備員が配置されている。 諸葛亮にあやかりたいと、ほぼ全員ここで記念写真を撮る。 |
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外に出て改めて諸葛亮殿を振替えると、雑草が生い茂る屋根が見えた。中国にはこのような老朽化した文化財が至るところにある。これらの修復には膨大な金がかかり、たいへんである。 | 続いて劉備の墓へ向う。
出口の看板は英語、日本語の3ヶ国語だ。 |
ちょっと歩きます。 | |
このような横額が全ての出入口に掲げられている。 | |
劉備の墓碑には乾隆帝が書いたと言われる「漢昭烈之陵」がかかっている。 | |
しかし、ここに入場した時刻が遅かったので、墓陵をゆっくり見ることが出来なかった。残念!! | |
出口 |
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夜は四川省主催の歓迎宴が「四川賓館」で行われた。庭が素晴らしい。 | |
今回は食卓テーブルの写真は撮らなかったが、素晴らしい階段踊り場で記念写真を撮った。 私といえば、下痢も止まり、少し食べれた。 |
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食事の後、全員再び昨日行った通称「掛け軸通り」の夜店へ出かける。 色紙12枚追加で購入。 |
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今日は思いがけず、李津成君を思い出した。 ホテルに帰って、早速青海省に電話したが、通じなかった。 これで17、18、19、20日と4日間不通である。いったいどうなっているのであろう!! |