2018年 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
 
<2018年1月>

人生最大の窮境 その後V

12月6日、足の痛みが完治した。
母の看取り介護の疲れと法事の気づかいで5月31日痛風を発症して以来、二転三転・七転八倒の半年であった。嫁さんの看取りでも同様なことが起きていたので状況は理解できたが、今回は主治医が廃業してしまって私の病状に対する処方箋がなくなっていた。

新しい医者に診てもらったが、以前のようには要領を得ず「偽痛風」を理解できなかった。

以来、痛風改善薬「尿酸減少剤」を服用し続け、治まった。
ということは尿酸値が基準値以下になっても尿酸値を低減させる薬剤が効果的であったということである。
不思議な話だ!?!

経過のまとめ

7月中旬、右足の痛みが治まったと思ったら同じ症状が左足の親指に発症した。
事態はここから混迷を極めた。体調は最悪状態を続ける。弱り目に祟り目だ!

9月末、左足の腫れと傷みの原因判明>蜂窩織炎であった。

10月早々、入院して安静を確保し、朝と夕方の1日2回、3日間、点滴を投与したら治まった。
元気な細胞に取り付く意地の悪い細菌が体内に侵入し、弱っている私の身体を乗っ取るつもりだった。
3日間静かにしておれば細菌は行き場を失って静かになる。結局、動いたらあかんということであった。

この時気づいたことは、自分の身体は自分で直すということであった。
しかし、侵入者をやっつける力(体力)がなければやられっぱなしである。
気づいた私は、退院後の生活を少しづつ昔に戻すことにした。

11月初め、腫れと痛みは穏やかになって来た。
目標1日1食を目指してアルコールを断ち、1日2食の習慣化を完了していたが、これを振り出しに戻し、1日3食〜4食へ。さらにアルコールも完全復活させた。とにかく体力・筋力を付けようと舵を切りなおす。

ただこの時期ではまだまだ筋力不足は否めない。
玉ねぎの植付作業を這いつくばってやった結果、足腰ガタガタで全身に湿布薬を貼らねばならなかった。
その後、11月末から12月初めまでの2週間で100本を超える自然薯掘りをしたが、筋肉痛もなく湿布薬なしで作業を続けることができた。驚異的に体力が向上している。

12月末、体重測定>66Kg<半年前63Kgまで落ちた体重が3kg回復した(^v^)
元々は70Kgなのでもう一息である。
このままの生活リズムを続ければ、母親を看取る前の体力を確保できそうだ
(*^^)v

70代半ばでの未曾有の災難を、ここで克服できたとしたら、最早わたしは不死身である。
などと、ひとり悦にいっている私なのであります(●^o^●)

皆様のご健康とご多幸をお祈りして 新年のご挨拶とさせていただきます。


新しい年の始まりに思うこと

@ 原子力規制委員会の新委員長就任を祝福します。

原子力規制委員会の初代委員長田中俊一氏には心からご苦労様と労をねぎらいたい。
就任期間6年、新組織「原子力規制委員会」は再稼働問題では何かと取りざたされてきた。
しかし、国体は大筋では規制委の仕事振りを好感してきたように思う。
これも田中委員長の人徳とも言える木訥とした佇まいによるものと思っている。

初心を忘れず、粛々と後始末を続け、奮闘6年間の覚悟をしかと拝見させていただきました。
とても感動しており、尊敬の念でいっぱいです。

国策で進めてきた夢の原子力平和利用が未曾有の天災により、文字通り「想定外」の施設損壊を受け、廃棄することとなった。ただ、損壊した原子力設備に人は簡単には近づけない。
これから設備をゴミにする作業が何十年と続くことになる。

そこで、今後は顧問とか相談役として、新委員長のサポートをお願いしたい。
頑張れ原子力規制委員会


A 地震はインド洋と太平洋沿岸に集中している。

この中で最近の超巨大地震(マグニチュード9.0〜10.0)は規模順に南米・チリ、インドネシア・スマトラ島、米国・アラスカ、日本・三陸沖、ロシア・カムチャッカ、に発生している。

福島県で超巨大地震により壊滅的な原発事故が起きてしまっても、日本が世界有数の地震大国であっても、原発立地自治体は原発がなくなることを懸念し、周辺自治体は受動喫煙ならぬ、一文の得にもならない「受動放射能」を断固拒否。
この事態は原発の爆発メルトダウン事故後、変わらず続いている。
なんともバカバカしいいがみ合いである。

立地自治体は自分の生活環境を安心安全で豊かなものにする方策を、1人1人が自分の頭で真剣に考えて欲しい。そして、濡れ手に泡の補助金生活から一日も早く脱出して欲しい。町が消滅する前に!

片や周辺自治体であるが、自分たちが使っている電気は隣町の原発で作ったものだということを忘れてはいけない。反対して、施設がなくなれば電気もなくなるのである。だから、その時のために自身で電気を作らないといけない。つまり地産地消の手段を考えないといけない。
何も考えなくて、ただ反対しているだけの愚か者にはならないで欲しい。

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2018年2月
人生最大の窮境 W
 

昨年、食事を一日3食に戻したことで、体重は着実に増えている。

今年は、食物のバランスを改善するため、地元の炊事業者から“おかず”だけを
月曜日から土曜日までの6日間、夕食として宅配してもらう。(ご飯は今まで通り、3合陶器釜で自炊する)

この総菜は実質一日4食目の食事にもなり、ときには酒のつまみとして大変重宝している。
さらに足腰筋力回復のため正月明けからウォーキング鍛錬を開始した。

1999年(年齢58歳)にボストンマラソン還暦完走を目標に鍛錬を始めたとき考えたのが、以下に示す「歩き方・走り方」である。

レベル1>楽歩(がっぽ)               1Km12分台(分速 83m、時速約5Km)

レベル2>速歩(そっぽ)               1Km10分台(分速100m、時速6Km)

レベル3>疾歩(しっぽ)                1Km 9分台(分速111m、時速約6.6Km)

レベル4>激歩(げっぽ)               1Km 8分台(分速125m、時速約7.5Km)

レベル5>楽走(がっそう               1Km 7分台(分速143m、時速約8.6Km・マラソン4h54mタイム

レベル6>早走(さっそう)             1Km 6分台(分速166m、時速約10Km・マラソン4h13m台タイム

レベル7>疾走(しっそう)             1Km 5分台(分速200m、時速12Km・マラソン3h30m台タイム

レベル8>爆走(ばくそう)             1Km 4分台(分速250m、時速15Km・マラソン2h48m台タイム

レベル9>激走(げきそう)            1Km 3分台(分速333m、時速約20Km・マラソン2h6m台タイム

これに依れば現状は分速94m(時速5.6Km)なので、レベル1.5程度となる。
現状ではこれが精一杯に近い歩きで、更に頑張ってもレべル3までが限界のように思う。

そこで、1ヵ月のウオーキング総長50Kmで身体慣らしを終え、2月からはレベル5(楽走)に進み、足腰だけでなく心肺機能の回復に向けたジョギング鍛錬を開始する。

これが全身の体力強化につながることを信じて、無理することなく着実に進めたい。


福島復興の着実な進展を望む
昨年、「ふくしま便り」として「原発事故6年8ヶ月、風評克服へ知恵」と題して、川俣町の米づくりを応援する福島大学の学生が運営開催した「米コンテスト」のイベントが紹介された。

ようやく地元主導の復興が動き始めた。それも若い人達によって(^_-)-

福島市と川俣町はちょうど、原発の爆発によって放射能が飛散した方向に当たる。
ここでようやく農産物の品評会が開催されたことをお祝い
したい。

飛散した放射能による土壌汚染が落ち着くには
放射性物質の半減期など基本的な条件があり、
長い年月が掛かることを覚悟しないといけない。
  半減期についてはWikipediaに詳しく記述されている。図は「エネ百科」サイトから引用したが、放射能の減り方(半減期)で解り易く解説している。福島第1原発でよく耳目するのはヨウ素、セシウム、プルトニウム、ウランである
 
 

ただ、今回の報道では、明るい出来事としての単なる紹介記事に終わっている。

米は日本人の主食として、最重要食品である。
福島の米が身体にとって、本当に安全なのか?、本当に安心できるのか?

今回の報道で提示された安全のデータは以下の通り、非常に大雑把なものである。
@
原発事故後、全県で収穫米の全量・全袋の放射能検査実施、
A
結果、2015年から基準値1Kg当り100ベクレル超えの米はゼロ、
B
今年は1Kg当り50ベクレル超えもゼロ

多分6年8ヵ月、一日も休まずデータを採取してきたと思うがこの努力が一つも提示されていないのは残念である。
だからと言って、県内全ての放射能汚染状況を数値で出すことは、見る方も面倒なことで、意味がない。
そこで、2011年3月からの県内全域の汚染推移を分布図によりまとめることが最良ではないかと考える。

現状、ほとんどの国が福島産の水産・農産物を輸入禁止にしている。
汚染推移の分布図を世界に逐一(リアルタイム)発信することは、福島県産物の安全・安心を解り易く説明する最善策だと考える。
福島大学にはこのような広報とともに、今後困難を極める第1原発4基の廃炉に向けての取り組みについても効果的な広報活動を続けるよう期待したい。

<後 記>
私は福島で原発事故が起こった時、「100万人の原子力基礎編」(出版:アグネ )を思い出した(初版1971年)
書庫を探すと出てきたので開くと、200頁少しの本であるが、読んだ形跡は前半の基礎部分だけであった。
原子力シリーズはこの後「応用編」と「燃料・材料編」が発行予定にあったが、専門外だったので購読しなかった。

基礎編は私が30歳の時発刊されており、監修者は金属工学者の三島良績氏と大阪大学教授の吹田徳雄氏。

執筆者は電源開発大塚益比古氏、九州大学講師神田幸則氏、東北大学教授木村一治氏、大阪大学助教住田健二氏、北海道大学教授井上和彦氏、京都大学教授柴田俊一氏、名古屋大学教授伊藤憲昭氏、住友原子力工業(株)永島菊三郎氏、東京工業大学教授青木成文氏、京都大学教授兵頭知典氏、東京大学助教吉沢康雄氏、大阪大学教授吹田徳雄氏。
いずれも原子力工学の権威者であった。

基礎編は原子力のイロハを比較的平易に記しており、素人の私でも理解できることが多かった。
この本の何より優れていたところは、虚心坦懐だったことである。原理から始まり、良いところ悪いところを余すことなく示していた。

巻頭の編者のことばで、「20世紀末には、わが国でも発電の過半が原子力になりそうである」と予言し、さらに「原子力船、地域暖房、海水脱塩についで、化学工業の熱源として原子力の発熱を利用する計画が日独ではじまるに至った」と、原子力の輝やける未来を宣言した。

しかし、編者三島良績(よしつぐ)氏は1997年早春、14年後の2011年3月の福島第1原発の巨大な地震と津波による電源喪失でメルトダウン爆発して、レベル7の最悪の事故となったことを知ることなく、75歳で急逝した。
原子力の明るい未来を信じたまま他界出来たことは本当に幸せ者だ。

ところで、アグネ社は金属に特化した出版社であった。
金属加工を生業にしようとしていた私にとって加工技術の習熟は必要絶対条件であった。
そこで、社会人になった時、工作機械や工具材料の知識を習得するため月刊専門誌、4冊(機械と工具・機械技術・応用機械工学・技能士の友)の 定期購読を出版社と契約した。以来、雑誌は自宅に郵送されてきた。

しかし、加工する相手(被加工材料)の性質を理解せずには加工技術の開発もできないことに気付き、専門外の材料に関する書籍について調査。社内の材料の専門家に金属材料に特化した出版社「アグネ」を紹介してもらった。
そして、アグネ社が発行している専門書を定期購読することにした。
一つは、月2回発行される「金属」、もう一つは年4回発行の「材料加工」であった。

現在は『受託分析と理工学出版の「アグネ技術センター」』として生き残っている。
アグネ公式サイトに依れば雑誌「金属」は1931年創刊されている。
「100万人の金属学」シリーズは「基礎編」が1965年に、「材料編」・「技術編」・「科学編」が1966年に発刊した。

その後、100万人シリーズは機械工学シリーズとして「100万人のメカニズム」1968年初版、「100万人のダイナミックス」1969年初版と、タテ続きに発刊された。これらの書籍で最新加工技術の知識を入手し、金属加工技術の開発と製品設計に活用した。

 
ちなみに、出版社名「アグネ」AGNE は偉大な科学者4人のイニシャルをとったもの。
 
Aristoteles(アリストテレス)     (384〜322 B.G)
 
Galileo(ガリレオ)                  (1564〜1642)
 
Newton(ニュートン)               (1642〜1727)
 
Einstein(アインシュタイン)   (1879〜1955)

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2018年3月

人生最大の窮境 X

 

年が明け、1月からしばらくは足腰鍛錬のために本格的にウォーキングすることにした。
一回5
Kmを2,3日おきに、疲労を蓄積しないよう、50Km歩く計画を立てた。

結果、4日・6日・10日・13日・14日・19日・28日・29日の8回計40Kmに終わりそうだった。
そこで、1月最後のウォーキングを30日に10
Km行い、計50Kmを達成した。

足腰の筋肉疲労もなく目標を達成できた。これは大変な自信となった。

この調子で2月、3月と続ける計画であったが、体調も良好なことから2月からゆっくり走って見ようかと、レベル5(楽走)1Km7分を実行することとした。
距離はウォーキングと同じ5
Kmとし、2月2日、2月3日と2回走ったところで異常もなくホッとした。

以降、寒さが厳しくなったので中断した。ただ、寒いからと言ってあまり休んでばかりでは鍛錬にならない。歩いていても、走っていても、強風吹きすさぶ中を同じように歩いたり走ったりする人はたくさんいる。
負けてはおれない!という気持ちがムラムラと湧き上がる。

11日3回目のジョギングを決行。冷たい風があるので、念を入れてストレッチした。
2日と同じコースであるが、このコースは折り返し手前で1
Kmくらいの下り坂がある。
ということは、帰りは1
Kmの上り坂になるということである。ここは歩いてもきつい坂なので慎重に走る。

残り500mというところで、突然右足のふくらはぎに“ピキッ”と弾けるような痛みが走った。
瞬間!まずい
(~_~;)これはまずい(~_~;)
歩いても痛みは消えない。ビッコひきひき残りを歩いたり、走ったりしたが、痛みは消えない。

一瞬“じん帯損傷”?目の前が真っ暗になった。
確かに今日は寒かった
(~_~;)頭は混乱し、ただ、ウロウロするばかり。

コース出口から家まで約500mある。ビッコ引きながら家にたどり着く。
直ちにお湯に足を付けて温める。
後はただただ回復するまで歩かないことにし、外出は自転車とした。

幸いにも自転車は運転できた。ピキッとした痛みは自転車のペダルを踏むことに支障なかった。
これは大いに助かった。
ということで、2月はウォーキングコースのジョギングは時期尚早として、断念
(~_~;)

かといって、ウォーキングを止めてしまうと足腰の鍛錬ができない。
そこで、右足の痛みを観察しながら、無理のない範囲で散歩することにした。
ちょうど菜園が家から1
Km程のところにあるので、畑仕事しながらの一石二鳥で右足の治癒を待つ。

2月度は、3月のジャガイモ植付けと、4月の長芋植付があるので、土作りなどかなり頻繁に畑通いした。

耕運機などを必要とする作業は車での移動となるが、それ以外の作業では用具が畑の物置においてあるので散歩方々歩いて行ける。(2月は8回)

2月は私の勇み足で、取り返しのつかないことになることが心配されたが、幸い大事には至らず少しずつ回復している。この調子をもうしばらく続け、足腰に自信が付いた時、改めてジョギングステージに上がることとする。

福島除染袋の管理体制を充実強化せよ <解説>100万袋超えの可能性

 

この仕事の発注者は東京電力だと思う。
この仕事の重要性と危険性を理解しているのは当該事業者の東京電力である。
ならば、これを請負事業者に正しく伝えなければならない。
請負事業者はこれを踏まえ、作業の手順と要領を策定し、教育訓練を行い、粛々と実施しなければならない。
報道で、「スピード優先」とか「劣悪な現場知って」などの作業者言質から、この作業の重要性と危険性がよくよく教育訓練されていないことが良く解る。しかしながら、作業者はこの仕事が危険なものであることを、@物々しい作業着装着、A高額な報酬、などから多分、理解していたはずである。


であるならば、作業者もこの仕事に対する予備知識を持って対処して欲しかった。作業の要領がはっきりしなかったならば、管理者に問いただして欲しかった。事件が発覚してから俺たちは言われたとおりにやっただけだよなどと、逃げ口上は卑怯である。
今回の事件はこのような金儲けのために集まった衆愚な体系から生み出されてしまった。と、思う。

最終責任者は原発を主導してきた国であるからメルトダウン事故後の廃炉管理責任組織は「環境省」かもしれないが、ここだけ責めるのも片手落ちである。

この難事業を遂行した全ての組織管理者が事業内容を十分理解し、それを作業者に確実に指導したかどうかについて取材・報道して欲しいのである。
何か起こるとすぐに国の責任だとして、思考が停止する専門家の話を取り上げるだけでなく、この仕事にたずさわる事業体全体の責任として受け止めるよう厳しく追及して欲しい。

そのためには、作業者はこの仕事をよく理解していたのか?、それを納得したのか?、どのような教育訓練を受けたのか?、などなど作業の目的と手段を正確に把握していたのかどうかについても取材しないといけない。これが明らかにならないと事業体全体の問題点が明らかにならない。
真相は、ここに踏み込めるかどうかである。

以下に思考停止状態の専門家の話を報道から全文掲載する。

@ 汚染物流出の危険性増す  元京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さんの話 
放射性物質を含んだ汚染物が水浸しになれば、流れ出す危険が増えるし、重量も増えて扱いが大変になる。汚染物質を水に触れさせないのは基本だ。そもそも、フレコンに防水機能を付けるようにと言いだしたのは環境省。ずさんな管理を放置するなら、高額な内袋付きフレコンを使う必要はない。

A 国の姿勢の表れ  除染作業員などの労働相談を受ける「被ばく労働を考えるネットワーク」の那須実さんの話
国は早期帰還を優先し、集めた汚染土壌の保管場所や期限といった重要なことを明確に決めずに除染を始めた。今回の問題も、形式的に除染を済ませればいいという国の姿勢が表われている。施工不良のフレコンが多数ある可能性がある以上、環境省は受注した企業任せにせず、自ら現場を回って実態を調べるべきだ。

 

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2018年5月

人生最大の窮境 脱出(^_-)-

 

2月の大失態を反省し、3月は完治を期して自重した。
すなわち、ジョギング
ZERO、ウォーキングは畑への散歩(約2Km)を8回、サイクリングロード(約5Km)は3回であった。これ以上歩けなかったのは右足ふくらはぎの痛みであった。

何処を歩いても、1Kmくらいで右足ふくらはぎに突っ張ったようなツンツンした痛みがはしる。
速度を落として、しばらくゆっくり歩くと、ツンツンが和らいでいき、消えていく。
痛み消えたからと言って油断すると、その夜、全身に湿布薬を貼らないといけなくなる
(_;)

そうそう、3月は孫の野球試合応援のため静岡へ泊まり込みで出かけ、2日間あちこち歩き回った。
孫3人は高校生、中学生、小学生であるが、夏の甲子園を目指す高校野球の地方予選が始まった。
また、ほぼ同時期に全国中学校野球もスタートした。
さらに、末っ子もお兄ちゃん同様、野球大好き少年となった。

今年、県初の少年野球クラブ選手権大会が開催されるのでキャプテンの孫は張り切っている(●^o^●)
主催者は地元の企業であったが、県内37チームが集い、開会式が行われた。
バックネット裏で小学6年生12歳の孫の堂々たる選手宣誓を聞いて感動した。

長男の大会会場(公設球場)と、次男の試合会場(中学校のグランド)は近くだったので、中学校の駐車場から渡り歩いたが、これが結構きつかった。右足ふくらはぎがツンツンしっぱなしであった。
娘に気づかれないようビッコを押し隠して平常心を装う。

長男の球場には周囲にジョギングできる通路があった。
そこを年配の男性が
Tシャツ1枚でジョギングしていた。頑張っているな(^_-)-
近いうちに地元で大会があるかもしれない。彼が何周かしたところで、まだ孫の試合開始ではなかったので、私も1周ウォーキングした。

やはり、途中でふくらはぎがツンツンして歩きにくい。無理して1周したところで先ほどの年配ランナーが休んでいた。思わず声を掛けてしまった。

年齢は64歳。50代までは国内の大会に参加していたという。しかし、仕事の都合で中断せざるを得ないこととなりずっと休んでいたが、時間が取れるようになって走り始めたという。

私も“還暦ボストンマラソン完走”を目指して頑張っていた時期もあった事を告げ、話しが弾んだ(^^

「少しずつ調子も上がってきたので、出場できるよう慎重に練習していく」、という言葉を聞いて本気だと感じた。私は右足の筋肉損傷で戦う走りはできない。しかし、楽しい走りは可能かもしれない。

気長に健康保持のために歩いたり、走ったりを続けたい。

結果、3月の鍛錬としての歩行・走行は32Kmであったが、私の屋外活動は自転車運転、畑作業、草取りなどかなりあるのでこれらを含めた総合的な運動量として考えた場合、なんの心配もない。


4月になっても右足ふくらはぎの歩きはじめると痛くなる症状は消えない。
このようになったのが2月11日であるから単なる筋肉痛ではない!そこで、医者に相談。
レントゲン写真診察してくれたが異常なし。(当り前だ
(_;) 湿布薬をもらってお暇する。

中途半端にゆっくり散歩していたこともいかんかったということか(_;)
いや、そんなことではない(*^^)vなどと葛藤しながら、4月の足腰鍛錬方針を決める。

@サイクリングロードの散歩(約5Km)は中止する。(このコースは思いっきり頑張ってしまうから)
A約2
Kmの散歩は雨が降らない限り、今まで通り続ける。
B5
Km程度で荷台に収めることのできる荷物がある時は自転車とする。

行動の基本方針
@大きな荷物がある時は自動車
A小さな荷物がある時は自転車
B手ぶらの時は徒歩

以上の結果、月半ばには、ふくらはぎのツッパリ感が激減した。

4月は例年、月半ばに春まつりがある。今年は13日金曜日(試験曳き)、14日土曜日(前夜祭)、15日日曜日(本祭り)であるが、足のツンツンが何故か13日の夜に劇的回復を見せた。
家内にゴタゴタが起きて3年、世間から離れて自重生活してきたが、突然開放された。
神のご加護と、仏の慈悲というほかありません。

お陰さまで、14日家の前を通る山車と、祭礼関係者との再開を果たすことができた。
15日は、朝から晩までとはいかなかったが、午前4時間午後4時間の計8時間を、山車と共に、休み休み歩くことができ、しかも湿布薬無しでも、翌朝足の痛みはなかった(●^
o^●)\(^o^)

結果、4月は散歩が6回(12Km)、自転車が6回であった。(祭りでの歩行距離は約5Km

2月のアクシデントから必死に回復を願って、2ヶ月間頑張った結果に大満足である。

3年間ずっと心配を掛け、これを励ましてくれた子供たちと、兄弟と、地域の皆さんと、特に毎週木曜日に顔を合わす成仏しかけの後期高齢者の皆さんと、私たちすべてを見守ってくれている神仏に感謝いたします。
今後とも大いに自愛して、皆さんと楽しく余生を過ごしたいと存じます。
ありがとうございました。


「福島第1原発メルトダウン事故顛末記」の新聞報道内容と<私見>の記述について

本稿は2011年3月11日以降、事故の顛末の一部始終を風化させる事のないよう追跡し、後世に残すことを目的にやってきた。事故から7年、関係者の懸命な取り組みで、やっと2号機と3号機のデブリの実態が明らかになって来たところである。
また、放射能汚染で生活基盤を破壊された被災者の苦しみが癒えないまま、半減期を待つしか故郷に帰る術がない状態は、今後も何十年間か続くことが予想される。

このような重要な局面に至っているところなのに小生の精神的持久力に陰りが見え始め、今までのように事象に対する個人的な印象とか見解を申し述べることが億劫になって来た。

そこで、3月からは個別のリンク先への記述を控え、福島第1原発事故トップページ(今年度ではサイト先>fukushima2018.htm)の月間情報に集中させ、当月の原発関連報道のほとんどはこの部分で概要が理解できるようにして、個別のリンクサイトマップへの記述を省略した。

なんとかなりそうなので、今後はこの考え方で顛末記を継続したいと思う。

事態の収束は大いなる先にある。勿論のことではあるが、小生も既に彼の地の住人になっており、収束を見届けることもできない。ただ、持てる能力(知力・体力)で、最善を尽くすのみ!
 

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2018年6月
体調完全 復帰(●^o^●)
 

昨年63Kgまで落ちた体重は、食生活の改善で劇的に回復し、今年に入り66Kgと3kg増えた(^v^)

この事で体力も回復し、散歩での右足じん帯部のツッパリや痛みが消え、さらに畑での農機具使用後の筋肉痛も翌日以降に引きずることが少なくなったので湿布薬を貼ることも減った。
半年後の6月は体重も1
Kg増の67Kgと順調に推移している。
目標はBMI23である。身長175cmの私では目標の体重は70Kgとなる。

今後1年くらいかけて現状の生活習慣を堅持し、さらに運動量を増やして体力向上を図る。

<生活習慣>

@散歩(月36km)>2Kmコース月16Km(週2回月8回)、5Kmコース月20Km(週1回月4回)
参考>3月以降の2
Km散歩実績>3月8回+4月7回+5月11回=26回x2Km=52Km

A畑作業>春夏秋冬の野菜づくり11品種の栽培
自然薯、ジャガイモ、玉ねぎ、大えんどう、白菜、ブロッコリー、キャベツ、シシトウ、ピーマン、茄子、きゅうり

九州電力は商品である【電気】を作る手段の管理があまりにお粗末だ! 

電力会社の生業は言わずと知れた発電とその顧客への送電である。これが満たされないのであれば、あるいは不測の事態により体系に異常が起こり、安定的な供給が確保できないとして、顧客の生命や財産に影響を及ぼすことがあれば、その責任を取らないといけない。

見えるものを作っている製造業では、製品の欠陥で損害が発生しないよう製造体系の品質保証に注力し、「品質第一」を社是とすることが一般的である。にもかかわらず欠陥商品は増大の一途であったことから日本でも事業者の「善意の保証」に頼るのではなく、アメリカ並みの「製造物責任による補償」に1995年法整備した。
ただ、原子力損害賠償責任は1961年制定されたが、原子力発電は適用外のままである。

電気は目には見えない。
しかし、人間の血液同様、社会活動のエネルギーであり、24時間休むことなく安定供給し続けるという重責を担っている。社説には「小さな穴の大きな教訓」と警告しているが、「教訓」として受け止めるだけでは済まされない重大な責任を、【電気】という“もの作り”に従事している人間は感じて欲しいのである。

製造物責任法−Wikipedia
製造物責任法(PL法)による訴訟一覧19952008


5月から終活開始>2階物置のMy History’s Goods処分
終活@>パソコン および通信関連のデジタル機器の解体 と廃棄
プリンター、モニター、HDD、モデム、ルーター、その他
解体方針>ドライバーなどで取り外しできる金属ネジは全て資源ごみとする
資源ごみ>鉄(鋼)、アルミ(合金)、銅(合金)等の金属類および銅線類
燃えるゴミ>樹脂、基盤
5月28日、14:00開始〜16:30終了(2.5時間)
詳細は「パソコン環境」サイトの1995年〜1998年参照
 

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2018年7月
終活作業>2階物置に20年以上保管していた、デジタル機器の解体・廃棄
 
終活ADVD/VHSコンビネーションデッキ解体6月11日、14:00開始〜16:30終了(2.5時間)

2011年7月からアナログ放送が地デジに変わって、今まで持っていたVHSビデオの再生ができなくなってしまうので、2009年6月6日TAK21のマックスワールドで再生機を購入した(9,800円)
製造元船井電機(中国製)、販売元DXアンテナのDVD/VHSコンビネーションデッキ

重宝して使っていたが、これが2013年2月20日リモコン操作ができなくなり、電池交換しても動かない。地デジ前に2年、地デジ後に2年と計4年使ったので、ま!いっか(^^)v

当時は簡単には捨てられないので、物置に保管していたが、毎日が日曜日になった現在、時間は有り余るそこで解体して資源ごみとして廃棄

前回のモニターより圧倒的に構造が簡単なので短時間で終わった。しかし、止めビスのなんと多い事か(~_~;)
可燃・不燃の分別(樹脂・金属)を徹底したいので、ビスはプラスドライバーで全て手で取り外した。
お陰で手首が筋肉痛(~_~;)
半田付されたボードは解体せずにそのまま可燃ゴミとし、コード・ケーブルなどは銅線として、それぞれ分別。

本体、音声・映像コード、リモコン 裏ブタ外し
DVD(左黒)デッキ解体完了とVHS(中央白) VHSデッキ解体して作業完了
 
終活Bプリンター解体(pdf2頁342KB)>14:00開始〜18:00完了(4時間)

構造は解り易かったが、金属軸に樹脂部品を位置決めするための部品として、通称「スナップリング」という止め輪が多用されていた。この部品は専用工具で着脱するのであるが、持ち合わせていないので簡単には外せなかった。それでもプライヤーかラジオペンチで止め輪を挟み、引張ると外せる場合もあった。

しかし、この止め輪の外形寸法が通常の規格より小さく設定されている事が多くあり、強引にニッパーでつまんで引き剥がすという手段をとった。摘まむスペースがほとんどないところは止め輪を外さず、軸に嵌っている樹脂部品をプライヤーで掴み、強引に引きちぎる。この時間はかなりかかった。

また、10年ほど使ったプリンターなのでインク駆動部分の部品が汚れており、手が真っ黒になった。
途中で電話など掛かってくると、そのままスマホを触るわけにもいかないので、その都度石鹸で洗ってから電話に出るが、時すでに遅し、相手はしびれを切らして、 切断してしまう(@_@;)
重要な用件ならまた掛かってくるから心配はない。と、軽く考えて、ほとんど罪の意識はない(^_-)-☆

最近は固定電話にはほとんど出ない。それでも、誰にも文句は言われない。
家族や友人知人は全て携帯に替えているからである。現状、固定電話は不要ではあるが、それでも非常時での連絡手段として使う時が来るかもしれないと、 毎月光電話契約料金500円+アルファで置いてある。

 
終活C>スクラップ新聞の整理
Cー1、福島第一原発事故とその経過、後処理関連報道の中日新聞スクラップ
2011311日、レベル7の原発メルトダウン事故が発生した時、事の重大性を察知して、この処理の顛末を追跡するため、新聞・テレビ・ネットなどから関連報道を選択し、ブログで「福島第一原発事故顛末記」として7年間休むことなく注視してきた。
しかし、報道内容に疑問を感じたり、東京電力の対応の悪さや、原発の利害関係(反対・推進)のあからさまな対立、口をつぐんで貝になってしまった原子力関連専門家などには、時として自分の考えを<私見>として表明してきた。そして、福島原発事故関連の新聞は切り取って、今は空き室になっている子供の部屋の収納棚に7年間、大切に保管してきた。

しかし、よくよく考えれば、過去一度もバックナンバーを閲覧したことがない(@_@;)
人生終わりに近ずいてきた(~_~;) 今まで、私が拾い集めてきた【お宝】(家族はゴミという)がたくさんある。
一念発起したちょうど良い頃合いでもある。そこで、7年分の貴重な原発事故顛末記の原稿とも言えるスクラップを古新聞として拠出することにした。これで終活品がまた一つ片付いた(●^o^●)

 
Cー2、中国情報の日本語版新聞「日中新聞」整理

私が2000年に中国大連に駐在したとき、日本へ研修した中国人から「日中新聞」なるものを紹介してもらった。この新聞は、中国人が日本において祖国の動向を入手する数少ない媒体なので、中国人研修生は日本語ではあるが日本語の勉強を兼ねて購読していたことを思い出し、2004年母親の介護のため帰国したとき、株式会社日中新聞社にネットで購読を申し込んだ。(この新聞の一部に人民日報の邦訳記事もある)

年間48部、月4部DMで送られてきた。購読料は年16,000円と高額であった(一部333円
ちなみに、紛らわしい名前の日本の新聞「中日新聞」は月間購読料3800円、部数は朝・夕刊各1部で月間約55部、年間一部63円

以来2012年まで約8年間購読してきたが、中国の一党独裁、覇権政策に嫌気がさして決別を決意し、購読を中止した。

この新聞は2004年から購読キャンセルした2012年まで2階の子供の部屋の収納棚に保管していたが、これを全部(約20袋)資源ごみとして廃棄した。

 

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2018年8月
【体力維持第一】をモットーに今しばらく生き続けます(*^^)v
6月に体調完全 復帰(●^o^●)と 、豪語して2ヶ月が経過した。その後について御心配をお掛けした皆様にご報告しなければなりませんが、残念ながら大威張でお話しする内容ではありません。
かと言って、また悪化したということでもありません。鳴かず飛ばずといってもよろしいかと思います。

6月にここで高らかに宣言した、散歩(月36km)>2Kmコース月16Km(週2回月8回)、5Kmコース月20Km(週1回月4回) でしたが、実績は6月が2Kmコース3回のみ、7月が2Kmコースと5Kmコース各1回のみで、報告するまでもないという惨憺たる結果でした(−−〆)(~_~;)

しかぁ〜〜し(^^♪2月に靭帯を痛めて4カ月、やっと7月に5Kmコースのウオーキングを試した。
約1時間かけてゆっくり歩いたが、直後の足の痛みはなかった。
翌日、若干の筋肉痛はあったが、以前のように全身に湿布薬を貼るということもなく、普通に起床し、普通に行動できた。確実に体力・筋力が向上していると感じた。

今後は、ジョギングはまだ無理でも、ウオーキング中心で足腰を鍛えたい。
特に、自分の年齢を改めて自覚し、【熱中症】などという病名など無かった若い頃の元気さにとらわれることなく、”体力維持第一”をモットーに生きてゆきたい。

私は、ちょうどWindows95が出た20年前から地元の気象情報をエクセルでグラフ化してきた。
今年、熱中症で亡くなる人が増えているというが、7,8,9月3ヶ月の最高気温はほとんど変わっていない。
変わった最大の要因は抵抗力の落ちた、我々世代の年寄りが増えてきたことであろうか(T_T)/~~~


 
終活D飯山17インチCRTモニター解体(PDF1MB)
1997年5月購入の17インチCRTモニタ飯山(MT−8617ESuperVGA1280x1024)の画面が、2004年8月突然、縦線一本になる。 7年間ご苦労様でした(^_-)-☆
解体後記

ガラス製のディスプレイ部とビーム部は鉄枠で接合されていた。
一般的には結合と分解が容易なネジ類で行われるが、ガラスを直接金属締結できないので別の方法で接合している。鉄枠もネジ類ではなく溶接構造であった。

この解体方法を検討するため、しばらく間を置いた。
締結部材を緩めて解体することが困難であると結論づけ、破壊することにした。

ガラスが飛散すると危険なので、古着を何枚も重ねて覆い、その上からハンマーで叩いて壊す。
壊れたガラスを見ると、特性や強度の関係なのか部位によって厚さが微妙に変化していた。

ディスプレイの厚みは約5mm、ビーム管部は2〜3mm、鉄枠との接合部は約10mmと分厚くなっていた。

割れたガラスを拾いながら驚いたのは、ガラスは簡単にははがせないほど強力に結合していた。
鉄枠との接合部分は高い機密性が求められるので当然ではある。
ビーム管とディスプレイを強固に接合するため、強力な接着剤が使用されており、これを剥がすのは至難であった。

終活ENEC−WiFiルーター解体
2013年4月、Win8無線LANモバイルPCを買った。しかし、このPCを持ち歩いても外ではネットに接続できない。そこで、Wi−Fi接続を検討した。結果、WiFiシステムをプロバイダーニフティnifty do LTE契約し、NECWiFiルーターで 、いつでもどこでもインターネット接続を実現した。

しかし、電話はガラケイ、パソコンはWiFiルーターによるLTE回線接続ということで便利に動けるようになった。しかし、1年使った頃から重装備の出歩き、接続コストの思いのほか高額なことなどで再検討の余地あり。

結論として、電話・メール・パソコンのネット接続を1台で達成できるスマホに注目。ドコモに最安契約を相談。
東芝の
Win8−2in1PCを動かすだけのnifty do LTEよりスマホの方が圧倒的に使い道が多い。
また、前回契約した
nifty do LTENECWiFiルーターを使用するものであるが、通信エリアが3Gなので遅い感は否めない。しかし、今回契約のGALAXY NoteWiFiテザリング機能は通信エリアがLTEなので、インターネットやメールなどが高速通信出来る。 ただ、テザリング機能は別料金なので使い過ぎないよう注意。

また、ニフティとの契約は期間年であるから使用1年未満 (2014年2月解約)では解約金9,975円を払わなければならない(−−〆)それでもこのまま1年使い続けるより、圧倒的に安くなるので決断し易い。

 

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2018年9月

屋外は熱波で砂漠風  わたしは半分、熱中症

7月はかろうじて、2Kmコースの散歩を1回だけできた。しかし、8月は早朝から夜中まで蒸し暑さが続いたので外に出る気にならず、結局一度も散歩しなかった(~_~;)
それでも庭の草取りや、自転車で畑の水やりと草取りに出かけたので、足腰の強化にはならなかったが、体幹強化には役立っていると思う。

それにしても今年は熱中症という言葉が日常的に飛び回っていた。
甲子園での高校野球の選手もスタンドの応援者も万全の心持ちで臨んでいたのではと思うが、選手が暑さで倒れることのないように、ピリピリした雰囲気が漂っていた。

7月は娘の子供(私の孫)が高校生活最後の甲子園大会地区予選なので、泊まり込みで応援に行った。残念ながら1回戦で敗退したが、孫の一球入魂の気迫を感じることができて、熱波と無風の応援席で声をからし、汗びっしょりになって応援した。その夜のビールが人生最高の旨さとなった。

いい試合だった!孫も満足そうで、男の子3人兄弟の長男として、夕食の席は笑い声が絶えなかった。
しかし、長男はこれから受験勉強にどっぷりつかることとなろう。
部活で勉強などほとんどしていない。これからまた人生の試練に立ち向かうことになる。

しかし野球で培った肉体と精神を勉学に向けることはできる。しかも半端なしに(^_-)-
心配などはしていない!自分自身でなんとかするであろう
(*^^)v

帰宅後、娘から写真が送られてきた。
息子と恋人のように抱き合って、満面笑みのツーショットであった。
孫3人、これからの人生を精一杯努力し、大いに楽しんでもらいたいと願ってやまない。


【8月の終活作業はお休み】

これだけ蒸し暑い日が続くと汗も半端ない!
作業はかなり緻密なので、汗は大敵だ!なので、8月は一服することにした。


【大飯原発の運転差し止め訴訟の判決(名古屋高裁金沢支部)>住民側逆転敗訴】

<私見>
私は以前の<私見>で、地裁と高裁が交互に異なる判決を出す実態を見て、原発の知見を学ぼうとしない司法に、裁判する資格はない。と、裁判官にもっと勉強して欲しいと、苦言を呈した。

しかし一方で、何でもかんでも司法に訴えるという安易さがあるように思え、民主主義(三権分立)が歪められているようにも見える。巨大地震とその大津波による原発の過酷事故は、地震大国日本の原発是非を全国民に問いかけるものであり、司法ではない。

安心安全なエネルギーとは何か?、自分たちのエネルギーの使い方に問題はないか?日常、湯水のように電気やガスを使っておいて、原発反対などと騒いでいる人々のなんと多いことか。

司法に訴えても、なにも変わらない現実を前に、ひたすら訴え続ける無策には呆れてしまう。さらには、立法・行政もあてにならない3重苦のなか、そのエネルギーをもっと直接的に行使すべきである。

総論賛成各論反対(他人事のような)の立地住民にも、もっとしっかりしてもらわないといけない。地震大国日本から原発を廃絶するには断固たる決意が必要で、あとは民主主義制度をフル活用するだけだ!

7月17日>逆転敗訴した住民側弁護団長は、今後の再稼働差し止め訴訟にも影響が出ることを考慮し、上告を断念。


ヨウ素剤配備不十分】
再稼働中の5原発が立地する4県(福井、愛媛、佐賀、鹿児島)の教育施設へのしかも福井県は5Km圏内ゼロ
<私見>
福井県には13基+2基の原発がある。
関西電力>大飯4基、高浜4基、美浜3基
日本原燃>敦賀2基
日本原子力研究開発機構>もんじゅ(大飯)、ふげん(敦賀)<廃炉中

この内3基(大飯2基、高浜1基)が新審査基準に適合して、現在営業運転中である。原発保有量日本一の福井県は、原発事故の起こる確率もまた日本一だと思う。しかるにこの体たらくは何たることか。
 
福井県知事は県民の安心安全を爪の垢ほども持ち合わせていない。原発立地で不労収入の味を占め、公僕としての務めを忘れてしまったようだ。

この事に関連して気になることがある。
 
ならば、原発近くに居住する住民はこの事をどう考えているのか?
 
目の前に危険な施設が存在するとき、御上(役所)が行動とるまで黙って待っているのであろうか(~_~;)

自分の命は自分で守るを基本信条としている私なら待ってはいない。
 
学校が用意しないというのなら、自分が買って子供のランドセルに入れてやる。つまりいつ事故が起こっても対応できる態勢を自ら構築する。

ヨウ素剤は1000個12,000円なので1個12円と安い。
 
御上にめぐんでもらわなくても個人で準備できる。また、使用期限もないので半永久的に使える。こんなことがキチンと履行できない自治体の首長はいったい何を考え、何を目標に施政しているのであろうか?

この記事には医学博士の崎山氏のコメントが別枠で掲載されていた。
 
ここでの話は徹頭徹尾、御上批判である。しかし、災害はいつどこで起こるか分からないのであり、それへの対応は個々人が考えることである。
 
ここで、崎山氏は住民は日常的に対策を考えて欲しいと一言、提言して欲しかった。

なお、この程度のことは1人1人が考えて対応することであり、報道関係がことさら騒ぐ事ではない。

 

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2018年10月
台風24号で我が家は大被害
9月29日、大型台風が日本列島を縦断する勢いで北東に進んでいる。
進路は昭和34(1959)年9月26日の伊勢湾台風と酷似している。
台風がこの通りに進んで来るときは雨戸を閉めるのは当然であるが、簡易温室を固定しないといけない。
 

大型台風24号で沖縄は300mmの大雨と瞬間風速50m(画像は全て気象庁公式サイトから引用)
沖縄が暴風雨真っ只中の進路予想は、九州・鹿児島沖から四国・高知の台風銀座(足摺岬・室戸岬)沖を通り、
和歌山から列島を縦断する勢いであった。愛知県は進路の南側にある。この進路は伊勢湾台風とほぼ同じだ!

 

30日、これはひょっとすると、ひょっとするぞ!(@_@;)ということで、全ての雨戸を12時に閉める。
ネットでは台風24号が伊勢湾台風(昭和34年9月26日)(1959)と同レベルであると繰り返し警鐘していた。
確かに満潮が20:30頃なので、高潮の可能性が高く、ピッタリ伊勢湾台風と同じ状況にある。
台風24号の30日の状況 >気象庁のお天気情報サイトはリニューアルして tenki.jp となった。
 
 
台風情報ではこれまでの進路や勢力や速さなどだけでなく「衛星画像(気流)」と「雨雲画像(雨量指標」が追加され、
国民1人1人が理解し易くなっている。しかし、そのお陰で今回の台風24号報道での情報操作を見ることができた。
 

以降は台風が上陸して列島を縦断するするまでのドキュメンタリーである。

@、24号は20時頃、和歌山県田辺市付近に上陸。大河ドラマ「西郷どん」は休止(~_~;)
A、20:38、我が町の役場は、町内の一部で停電のあることを広報。
伊勢湾、三河湾沿岸部はすべて高潮警報が発令された。
このまま風速45m/sが速度50Km/hで進むと、紀伊半島を通過するのは約2時間後の22時頃。とすると、台風が我が地域に接近する時刻と、満潮が重なることはないので、高潮の心配はなくなった
B、21:00、NHKの速報では、台風の現在位置は尾鷲市の西北西30Km付近を通過中とある。速度50Km/hと、気圧950hpaは変わらず
C、22:00、尾鷲進行中の情報で、浜松に居住する娘にメール送信
「台風24号接近、我が地域への直撃はなくなったが、浜松に向かうようです!注意ください」
D、22:06、NHK・tenki.jpともに一転して三重県の鈴鹿・津市方面に向かっていると報道。ビックリポン!慌てて子供たちに誤報訂正メール送信 >「失礼しました<m(__)m>知多半島直撃ですよ!中部空港はえらいコッチャ(@_@;) 勿論、ここもですけど(>_<)
E、22:36、子供たちに追伸送信>「風が停まりました。ひょっとして眼に入ったか?!?」
F、22:54、長男からメール
眼に入ったようです。もう雨は終わるみたいです。川西も落ち着くかな。
こっちはようやく本体の雨雲が到着。電車が止まって静か。
G、22:54、娘からメール
こんばんは。こちら浜松はすごい雨風で家が揺れています。18時〜停電してます。
そろそろ復旧だと思いますが。。。

久しぶりにみんなで人生ゲームしてこの長い夜を楽しみました。
お父さんと子供2人は(今日は音楽発表で明日は振替休日のため夜更かし)は車でドクターXしてます。まだまだ風が強くて怖いです。寝れるかな”(-“”-)”

H、23:07、娘に返信
台風コースはNHKも気象庁もでたらめでした。
田辺市上陸後、尾鷲市から西北西30Km通過が、津市Or鈴鹿付近に変わったと思ったら突然、奈良の橿原市付近へと変わった

追伸>22:00の橿原市付近北上の進路報道が、23:00に名古屋市付近へと北東に変わった。
I、24:00、台風24号の迷走ぶりに家族全員振り回されて、疲れ果てて就寝
(娘は別だ^^;
私は、台風情報の迷走ぶり報道が我慢できず、改めてNHKと気象庁の台風進路情報をチェックした。すると、情報操作の決定的瞬間を見つけてしまった。それは、衛星画像であった。

20時ころ台風が田辺市当りに上陸した時の衛星画像を見ていた時、今まで見えていた台風の眼が消えてしまった。ということは上陸した瞬間、台風は熱帯性低気圧にパワーダウンした?

この事に気が付いたのは多分多かったはずである。しかし、その後の台風報道はあくまで伊勢湾台風の再来であるという基調を変えなかった。
気象庁の「台風24号のまとめ」では台風が首都圏外(北関東)に入ったところ(1日0時)で970hpaとパワーダウンを公表した。
首都圏居住者が台風を強く意識して、緊張感を持って行動するよう誘導したと思う。
これは明らかに情報操作である。

 
台風進路情報の迷走ぶりを、PCをタブレットにして、リアルタイムに記述したものである。
 
 
台風24号の我が家の被害>冬野菜の苗ポット播き庭栽培用簡易温室 吹き飛ばされて苗がバラバラ(@_@;)
以下は、台風で吹き飛ばされた簡易温室と、その中のポット播き苗の復旧作業である。
11日、台風来襲前の状況 @、雨戸の前にあった温室が右端に転がっている。
 
 
A、温室は縛ってあったのに、3mほど吹き飛ばされた B、手前の黒いものは玄関マットで6mほど飛んでいる
 
C、 D、倒れた温室の中でゴチャゴチャのポットと苗を取り出す
 
E、バラバラになった苗を丁寧にポットに収める F、復旧終了
 
飛ばされたのは玄関マットと簡易温室だけであった。考えるに(^_-)-☆
風力と物体の重さにもよるが、物体の下側に風(空気)が入り込むと、浮き上がることもある。
浮き上がれば強い横風で飛ぶ。ゴムマットのような、重いものでも浮けば魔法の絨毯のようになる(@_@;)
原理はちょっと違うが、飛行機が浮き上がるのも空気の流れであった(●^o^●)
 

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2018年11月
喜寿祝賀で登山

小生、今年喜寿を迎える。これを喜び、子供3人がお祝いしてくれるという。
そこで、私は子供たちに希望を伝えた。
その希望とは、山好きのお母さんが健在のころ約束した、
「最年少の孫が小学校1年生になった時、家族全員で山登りしよう」と、いうものであった。

末っ子の子供が、ピッカピカの1年生になったちょうど今年、私は喜寿になります。
子供たちにお母さんとの約束をかなえたいので、ぜひ実現したいとお願いした。
3人とも快く受けてくれた。

上と下は男子でバリバリの現役(*^^)vなので、仕事も多忙で、計画作りは困難。
その時、真中の娘が「私に任せて
(^_-)-☆」と、手を上げてくれた。

登りたい山はずっと前からお母さんと相談して決めていた。
高齢のじーじとばーばが年少の孫と一緒に登れる山
(^^
それは、近くの御在所岳(標高1212m)だけです。

ただ、この山はなかなか険しいところもあり、最年少7歳が最後まで登れるかどうか?が心配でした。
下山まで歩きは無理であろうと、帰りはロープウエイにする計画としました。
これは私に対する配慮が大きいものでしょう
(_;)

それ以上に子供たちが心配したのは、高齢の私がしばらく登っていない山に登れるだけの体力筋力があるかどうか?でした。調べてみました?!?

結婚前の記録がないので結婚後ですが、過去4回登っています。
@1996年4月>娘22歳のとき私が54歳、嫁さんが49歳でした。
A1997年4月>近所の家族4人(子供3人、内1人が最年少の男の子と旦那さん)と一緒に
B1999年6月>2人で
C2000年5月>長男27歳のときで結婚前の年、私が58歳、嫁さんが53歳でした。

4回とも上下歩きで、ロープウエイは使いませんでした。
つまり、18年ぶりであったので、ちょっと!ちょっと!お爺ちゃん!大丈夫ですか?
(^_-)-

しかし私には、年間を通じて庭木の剪定、草取り、畑作業などで多少は足腰を鍛えているので体幹だけは自信があります。
2月に靭帯を傷めるまでは片道5Kmのジョギングとウォーキングを続けていました。
 

9月17日>子供たちに日帰り登山の備えについての留意事項をメール送信

こんにちは(o
23日は私の喜寿を祝っていただく日です。皆さんには様々配慮いただきありがとう。
ただ、御在所岳は標高1212mと低い山ですが、登山道は険しいところも一部ありますので注意しないといけません。
そこで、当日の備えについて確認します。

@ 服装>帽子、半袖シャツ、長袖シャツ、長ズボン、手袋、靴は靴底が滑りにくいもの、靴下は薄地と厚地各1足+1足
A 持ち物>顔タオル、雨合羽(フード付き)、飲み物、おやつ少々

追伸

人気景観コース(裏道、中道)はともに所要時間が3.5時間くらいですから、
登山は上りだけで下山はロープウェイが良いと思います。
ただ、正午頃までに登頂するためには、御在所登り口を8時半には出発しないといけません。
私と長女は長男家族の車に乗り合わせていきます。
次男家族は温泉と昼食場所の御在所岳「湯の山温泉」へ直行なので、遅れないように来て下さい。

私も喜寿のパワーをお見せできるよう頑張ります。登山が楽しくなるにはまずはお天気です。
初秋の爽やかさが実現するよう、テルテル坊主にお願いします。
皆さんいろいろありがとう(
*^_^*

その後、子供達家族の都合を確認し、参加者が決定した。
長男家族3人(子供2人)、長女家族1人、次男家族3人(子供2人)、計8人。
これで、最年長77歳の私と、最年少7歳の孫のスリーセブンズ登山が実現しました。
しかし、登山コースは、スリーセブンズを配慮して、登り「裏道ルート」、帰りは「ロープウエイ」とする。

9月21日(金)>自分の持ち物準備

@服装>帽子、バイト柄長袖シャツ、緑色長袖厚地セーター、釣り用ポケットいっぱいジャケット、
長ズボン、靴下(厚地と薄地5本指各1足)、登山靴、

A救急品>ガーゼ、脱脂綿、包帯、傷薬マキロン、絆創膏大中小、湿布(サロンパスA)、
熱冷シート、ムヒ、ラップ25cm幅、ロープ、布切れ(オシメ2枚)、トイレットペーパー、

B飲食品>ドラゴンスケース入り水道水ペットボトル1本、キャラメル2箱、飴少々

Cその他持ち物>嫁さん遺影、顔タオル2枚、フード付き雨合羽2着、筆記具

(注:忘れたものあり>水道水入りぺトボトル1本、顔タオル1枚、筆記具)

明日の行動計画策定

7:00、自宅出発
8:00、湯の山温泉駐車場、登山開始(中道Or裏道)
11:30、頂上着。頂上散策
12:30、ロープウェーで下山
13:00、駐車場
13:30、喜寿祝賀会>温泉と昼食
15:00、湯の山出発(次男家族は直帰)
16:00、帰宅

9月23日(日)御在所岳登山記録
6:00、起床
6:40、出発
6:50、ファミマで朝食準備
7:00、知多半島道路。途中、御在所SAでトイレ休憩
8:00、ロープウェイ駐車場駐車(有料1000円)
8:30、裏道登山コース入り口


8:55、登山届提出場所(入山者全員の氏名・住所・生年月日・連絡先)但し、子供は名前だけ
9:18、日向小屋(通過)
9:40、藤内小屋(休憩10分)>ここまでの体力消耗量≒三分の一
10:15、5合目
10:45、全員ヘトヘト(休憩10分)記念写真(このあたりから我が膝が笑いはじめた(~_~;)
11:10、7合目(このあたりから膝が大笑いしだし、苦しい登山となった)
11:20、8合目>国見峠(休憩10分)記念写真

11:50、登頂直前、下山する人たちが見ている場で、岩を踏み外して転倒落下>_<)(>_<)

体力の限界で足が上がらなかったのを無理して登ろうとしたから!
この時、岩に登り終え、登頂寸前だった最年少の孫を巻き添えにしてしまった。
一瞬のことで転倒の状況は全く覚えていない。

ひっくり返ったカメのような姿勢から起き上がり、最後の力を振り絞って舗装道路に上がると、孫が手を出して血が出ていると泣き出した!左手薬指の爪から血が噴き出している。長女がミズミズと叫ぶ!

親の次男が指を見て、「爪が剥がれている」と叫ぶ!長女が傷口を水で洗っている間に、
ポケットいっぱいのジャケットに納めた救急品(マキロン、大中小絆創膏、脱脂綿、ガーゼ、包帯、他)を準備。
(過去何度も山登りしたが、救急品の重装備は初めてである。今回は孫が一緒なので念を入れた)

血はなかなか止まらなかったが、長女がアレコレ手当てして応急処置が終り、孫の顔も穏やかになった。
しかし、傷口を全部覆っていないのでヒリヒリするようで、イタイイタイと泣き顔だ。

私は、幸いなことに外傷はなく血も出ていないし、意識もしっかりしている。
岩場での転倒なので打ちどころが悪ければ大ごとであった。ホッとした!
20年近く履いていない硬くなった登山靴なので指が痛くて歩けない。
そこで靴を脱いで靴下のまま道路を歩いてリフト乗り場方向に進む。

緩い下り坂ではあったが、膝が笑っている私には地獄のようだ!
昔、お母さんと長女や長男と来た時に休んだ場所が昔のまま残っていたので、ここで休憩。
この時、誰かが(長女?)私の右膝に血の痕があることを知らせてくれた。

ズボンを捲し上げて見ると、すりむいていたのでマキロン塗って絆創膏を貼る。しかし、皿がとても痛い。
割れてはいないが相当強く打ち付けたようだ。

眼下に大きな建物がある。ここには昔来た時、みやげ物や軽食レストランがあった。
長女が、「あそこなら救急医療できるかもしれない」というので、全員移動。
しかし、そこは閉鎖されており、横のトイレだけが使用されていた。
長女は、改めて孫の裂傷の処置をする。

と、そこにベテランらしい重装備の登山家が声を掛けてくれた。
傷口を見て、急いで背負っている大形のザックを下ろし、そこから救急箱を取り出し、テキパキと処置してくれた。
傷口に外気が入らないようホワイトテープで指をグルグル巻いてくれた。
これで、孫はすっかり落ち着いた。しっかりとした処置がなされたと、理解したようだ(^_-)-

手当てしてくれた彼氏はそそくさと救急箱をザックに仕舞い、これを背負った。
感想>このザックは頭の上まで伸びており、しかもアチコチに安全ベルトが掛かるようになっている。
云わば身体の一部になったかのように完全にフィットしている。
もし、転げ落ちた時でも頭と背中だけは守れるようだ(^^)v
随分と時間を浪費させてしまった。ただただ感謝あるのみ!繰り返しお礼する。

12:35、ロープウェイで下山

13:05、湯の山ロッジ着。普通なら先に汗を流すために温泉に入るところであるが、
今は腹ペコなのでこんな状態で湯につかればひっくり返ってしまう。ということで、先に食事をする。

昼食>じーじ:陶板焼き定食1680円+生中。ほか全員:ほぼかつ丼980円
温泉>疲れた体を癒す。

 
 
 

15:00、帰路(湯の山、出発)
途中、御在所SAでトイレ休憩

16:00、帰宅

 

<登山後記>

あと2カ月半で喜寿77歳であるが、今回のようなスケジュールでの山登りは無理であると感じた。

国見峠への分岐点(8合目)で休憩した後、靴紐を締め直して、気を引き締めたが、
このあとのコースは岩が転がっている場ではなく、岩(花崗岩)が風雨で砕けて流された峡谷のような道なき道で、これがずっと裏道コースの最後まで続いている。

雨で流された道は滑りやすく、足元が不安定となる。
8合目までの急傾斜の岩場を這いつくばって登って来た足の疲れが、
手で支えるところもないV字状の滑りやすい道を脚力だけで上がるというのが大変辛かった。

8合目までに笑いかけた膝が完全に大笑いになってしまい、最後の最後にひっくり返ってしまった。
巻き添えを食った孫には大変申し訳ないことをした。
幸い二人とも致命的なダメージではなかった。ただただ、神仏に感謝あるのみ。

特に私はカメがひっくりかえるように落ちた。
が、背中のザックの中で共に歩いたお母さん(ばーば)がしっかり受け止めてくれた。
ほんとうに奇跡だ!お母さんありがとう(●^o^●)

それにしても今回の出来事は奇遇である。
引き起こしたのは最高齢の私!災難にあったのは最年少の孫!なんということか?!?

これからは休憩を多くして、登頂5時間にしたいと思う。
二日かければ、裏道と中道だけでなく、ほかのコースにも行ける。
温泉につかり、山菜料理を楽しみ、ゆっくり休んで、翌日も別コースを登山!

これもまた楽しからずや(^_-)-
なお、車では渋滞と駐車場確保が大変なので、足は電車とバスがよい。

これが最後の登山だと決めていたが、歳相応に時間を掛ければ、まだまだ四季を楽しめる気がする。
今回はこの事を気づかせていただいた。
御在所岳登山はほぼ計画通り、ほぼ無事?!に終え、全員元気に帰宅出来ました。

皆さんありがとうございました。

 
<追伸>
@、24日、孫は地元の病院で診療してもらい、普段の顔に戻った。有難い!
 

A、10月21日、孫の爪が約1ヵ月で3cm出てきたとの連絡あり。
大事に至らず天恵にただただ感謝
<m(__)m>本当にありがとう\(^o^)

追伸>12月1日、孫に電話>爪は完全に復元した。
若き生命力は素晴らしい\(^o^)/これで一段と逞しくなるのであろう感謝感謝

 

 

原発事故の風化防止と芸術>

8月に福島市が原発事故のテーマ像として「サン・チャイルド」という巨像が福島駅近くの教育施設の道路沿いに展示され、これが賛否両論の大騒ぎとなった。

<私見>

私も新聞報道を見て思わず目を背けた。グロテスクの何物でもない。と、私は思う(~_~;)
それにしても突然これが駅前に出現したことが理解できない。

福島市はこの展示について意見公募したのか?
設置決定は市民選出の市議会だと思うが、後追いで批判が出るのは世の習い。

市民はこの事を本当に納得したのか?
事が行政の稚拙なのか、市民の無関心なのか、はっきりさせないと福島市の尊厳は地に落ちる。

 


トリチウム含有水の海洋放出で真っ向対立

政府小委員会、汚染水浄化後の放射性物質トリチウム含有水処分方法を議論する国民との公聴会を富岡町で開催。

<私見>

新聞紙上では政府推奨の「海洋放出」に真っ向対立する地元町議や漁業関係者の反対意見を強調している。ただ、トリチウムの処理の緊急度について解り易く解説するQ&Aなども掲示されており、公正な報道に努めていることは好感が持てる。

しかしながら、トリチウムがどんなものかも調べもせず、やれ「漁業に壊滅的打撃」だの、「放出ありき絶対反対」だの、「目の前の海で自由に魚が獲れない苦痛が解るか?」だのと、騒いでいる人間のなんと多いことか。

それにしても、原子力発電を推進してきた原子力ムラの専門家たちはいったいどこへ行ってしまったのか?感情的になってしまった地元住民には何を言っても聞く耳もたない。ただただ口をつむんで貝になっているのみか?原子力に夢と希望と無限の可能性を求めて研究してきたあの情熱は今どうなってしまったのか?

科学的根拠を持ち出せば、「あれだけ安全だと言っていた原発が何故メルトダウンして広大な地域を汚染したんだ?」などと言われると、返す言葉がないのか?何とも哀れである。

トリチウムとはどういうものか?、被ばくするとどうなるのか?、海洋汚染との関係など、キチント説明できないのか?イライラしてくる。ちょうど、大東亜戦争に敗れて自信をなくし、自虐史観のヒキコモリ人間になってしまった日本人のようだ。

ネットでトリチウムを検索してみた 参考>トリチウム半減期12.3年
@最もわかり易い>福島原発事故の真相と放射能健康被害
A国立保健医療科学院生活環境研究部>放射線防護>トリチウム
B偏向報道を糾弾>トリチウムを海に流すと。。。

 

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2018年12月
原発事故関連報道についての<私見>特集2018

これまで、福島第1原発事故関連の気になる報道に<私見>を述べてきた。
また、これを「トピックス&オピニオン」に再掲し、思いを新たにしようとしてきた。
2018年の終わりに当り、見落とした<私見>もあったので、改めて再掲することとした。


多重下請け体系の悲哀

ちょっと古いが8月に、福島第1原発の廃炉作業の危険手当増額で東電−元請け−下請け会社の労使和解が報道された。
信じられない現実に、改めて悪徳のかぎりを糾弾する。
 

東電は事故原発の敷地内で作業することの厳しさを十分に理解しているはずである。
しかしながらこのような不誠実な現実を見る時、発注者である東電が発注
した仕事の開始から最後まで(履歴)を正確に把握し、管理しているとは思えない。
事故現場にあるものは人間を含め、程度の多少はあっても全てが危険物である。
このような場所での作業に従事した人間に対し、東電は下請けへの指導と作業管理を強化すべきである。

投げら(発注さ)れた金(手当)は、一次下請け・二次下請けへと経由して、そこから営業・管理費(経費)を抜かれ、残りを末端(作業者)に分配する。

しかし、作業環境は場所によって異なり、手当てはその危険度によって当然のこととして高低する。
 
下請け会社が作業者に支払う「危険手当」をピンハネするようなブラックな事態は看過できない。
 
発注者は業務のトレーサビリティだけでなく、下請け会社の労務管理を監督し、不適切な会社には発注するべきでない

9月

四国・伊方原発3号機の再稼働を巡る裁判が面白い。

大阪地裁は広島高裁の仮処分決定を不服とした四国電力の申し立てを認め、差し止めを取り消し、再稼働を容認した。
日本人は一般的に自身に危害が及ばない限り、他人と他所の災難には関心を示さないようだ。

北海道から沖縄まで日本国中自然災害の危険が当り前だと思うのに、未だに「生まれて此の方、こんな大雨は経験したことがない」などと、洪水や山崩れで倒壊した家を前に途方に暮れる面々のいかに多いことか?挙句の果てに「水がペットボトル2本しかもらえない」などと報道関係者に不満をタラタラ!
全く理解できない。自分の命はまずは自分で守るという気概がない。

司法・立法・行政のいわゆる民主主義体制だけでは自分の命は守れない事ぐらい分からないで、ボーと生きてんじゃねぇと、言いたい。
福島第1原発のメルトダウン事故後7年経過したが、ここから国民は何を学んだのであろうか?今の新聞テレビを見る限り何も学んでいないように思える(~_~;)

私は、高校3年に襲来した台風15号(伊勢湾台風)で借家が高潮で全壊した時、九死に一生を得て以来、これを教訓として生き方を様々考えてきた。社会人になって、台風の高潮や地震の津波が届かないところに住居を構えた。
非常時の物資を保管できる大きめの物置(軽量屋根)を併設し、瓦屋根の母屋が倒壊しても命さえあれば生存を維持できるようにした。
これは最低限の自己防衛手段であるが、とにかく何がなくとも半月は生きられる態勢にはした。
後は神仏にお任せし、恨みっこなしにするだけだ!


10月

九州電力は知恵を出せ

九州電力が電力の安定供給維持のため、全国初の太陽光発電の出力制御を行った。
目的は過剰な電力供給が大規模停電に繋がるのを回避するためである。

九州電力は再稼働した原発4基で潤沢な電力を確保済み!
意識的にその他の発電設備の稼働を抑制したのは、脳なしのやることだ!
出力制御技術を高め、需要の変動に巧みに対応して、脱原発を実現して欲しいものだ。

原発をただ単に便利(儲かる)道具として使うだけではなく、最悪、福島のような事態が起こりうるということを想定して、全知全能を傾けるべきである。


11月

@ 定期的な現地取材は報道の基本。きちんと行われていることは当り前!
社説で福島の浜通りを例として「帰還困難区域の時間が止まっている」と、意味深な表現。

しかし、汚染地域の帰還は10年、20年では叶わないのが現実だ。それは福島第1には溶け落ちた核燃料が存在するからで、これが事故もなく無事撤去できた先に帰還が見えてくるのであるから。
報道関係者には、苦しんでいる人々の心情をおもんばかって、希望的表現になり過ぎないよう、慎重な姿勢が必要だと思う。

 

A 日本原子力研究開発機構の原子力科学研究所(茨城県東海村)で、敷地内保管(地下コンクリピット)の低レベル放射性廃棄物入りドラム缶(200L)の、中身の分別不良判明。機構は保管ドラム缶5万3千本を50年以上かけて点検する計画を規制委に提示。
これに対し、規制委は「50年もかかるのでは点検しないのと一緒だ」と、期間短縮を求めた。

規制委に全く同感だ!研究開発も出鱈目だが、事業管理もこれが法人として存続出来ていることが不思議である。後退する事業内容で、補助金に頼る経営が体質化しており、原子力産業を背負っているという自覚が見受けられない。

今までにもたくさん私見を述べてきたが、原子力研究開発の根幹(功罪)に関わる保守点検を軽視してはならない。
経営トップは、改めて初心にかえり、管理態勢に眼を光らせ、揺るぎない体制を構築して欲しい。
そして、華々しい開発よりも、開発された製品(システム)の品質確保(保証)がもっと重要であることを肝に銘じ、忘れないでもらいたい。

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