1966.8.11 〜 8.17
名古屋 → 鈴鹿 → 京都 → 奈良 → 青山高原 → 名古屋
この旅行記は旅行後、約1ヶ月経過した1966年9月20日に完成した。
これを、44年後の2010年6月 30日までにデジタル化し、インターネットにアップしたものである。
この自転車旅行を計画したのは昭和41年1月(当時25歳)であった。 目的は自分の体力の限界を知るためであった。 社会人となって数年経過したが、日常の仕事とサラリーマン生活は精神的苦痛が多く、スポーツ少年だった私にとって、ストレス一杯であった。 「健全なる精神は強靭な肉体に宿る」と言われる。ビジネス社会のストレスに対抗できる強靭な肉体を構築することが重要だと考え、自分の体に過酷な試練を与え、これに耐えられるかどうか確認することにした。 当初の計画は、奈良から吉野経由して国道169号、吉野熊野国立公園、熊野川を南下し、熊野市を通って伊勢市への道程であったが6日間で600Km強はいかにも困難であり変更した。 計画途中で職場の池田君が参画を希望したので、2人で実行することとなった。一人よりはずっと心強い。時は灼熱地獄のお盆休みである。 |
月日(曜日) |
道 程 |
走行距離 | 使ったお金 |
8月11日(木) | 名古屋 → 桑名 | 26Km | 4880円 |
8月12日(金) | 桑名 → 伊賀 | 87Km | 1355円 |
8月13日(土) | 伊賀 → 木津 | 62.5Km | 1545円 |
8月14日(日) | 木津 → 吉野 | 48.5Km | 850円 |
8月15日(月) | 吉野 → 名張 | 78Km | 1320円 |
8月16日(火) | 名張 → 鼓ヶ浦 | 79Km | 1760円 |
8月17日(水) | 鼓ヶ浦 → 名古屋 | 53Km | 100円 |
合計 |
434Km | 11,810円 @5,905円 |
自転車>出発当日、内田橋の木下自転車店で借りる<3段変速ツアー車 テント>2人用蚊帳で代用、蚊取り線香、寝袋>山岳クラブより借用 食事>灯油コンロ、キャンピング用鍋、飯盒、各種食器、調味料、米2Kg
水筒、タオル、洗面具、マッチ、新聞紙、トイレットペーパー、薬品、手帳、筆記具、懐中電灯、ハーモニカ、地図(道路地図、観光地図、コース地図) 以上を2個のナップサックと1個のリュックサックに納める。 |
井沢の市川氏に貸自転車店まで送ってもらう。
貸自転車店(内田橋の木下自転車店)は3段変速ツアー車
装備は後部荷台に寝袋を挟んでサックを被せる。
ハンドルに買い物かごを設置し、小物を入れる。
自転車店出発>18時頃
出発が予定より少し遅れたため弥富付近で日没。桑名市内に20時頃着 予定では富田浜にて泊る予定であったが、暑さと空腹で一時も早く寝場所を探す必要があった。池田君の心当たりをさまよい結局、桑名駅裏の大福田寺に御厄介になる。 お寺の庭を貸してもらうつもりであったが、お庫裡さんは我々を快く受入れ、空き部屋まで世話してくれた。飯の支度にさっそく取り掛かる。 夕食はかれこれ21時30分頃になっていた。 教訓>失敗は成功の母 空腹の度が過ぎて、あまり美味くなかった。その後のラーメンも・・・・・ 暑苦しく眠ることができず、二人とも寝返りばかりであった。 |
本日の支出>4,880円 自転車借り賃>@2000円x2台=4000円 |
6:00>起床
7:00>出発
朝の爽やかな空気をついて・・・・まったく爽快である。
しばしの幸福感もわずかに2時間。後は炎熱地獄と豹変した。
途中、ナップザックに入った米袋が車輪のスポークに挟まり、破損したかと仰天!
8:00>四日市着
パンと牛乳という簡単な朝食を摂る>115円
一路、伊賀へ向け排ガスと太陽とアスファルトに囲まれ、
いよいよ苦難の武者修行とはなり申した。ポポンポンポン・・・・・
途中、関西線との陸橋で休憩
この頂までは水を飲みたい一心であった。苦しかったー!
9:45>亀山のインターチェンジ着
池田君はかなり遅れる。そこで、ドライブインにて大休止。
牛乳飲み(@50円)、WaterCoolerの水をポットにいれる。
昨夜のにぎりめしは暑さのため異臭を発する。捨てる。
遠景は名阪国道への誘導路
国道1号をしばらく進むと、左に折れる道がある。これが伊賀へ抜ける鈴鹿の山道である。
入り口にて日帰りコースらしき自転車グループに出会ったが、暑さのためか鼻血を出していた。
亀山インターチェンジから国道1号から関町に進む。ここで伊賀に向う地道に入る。 この道は鈴鹿山脈に沿っており、ムチャクチャ悪い道である。 まるで砂漠のように体をとられ、ペダルは鉛のように重く、極度に疲れる。また、坂道は天にも昇るがごとく遠く、汗とほこりにまみれ、再三にわたり車を押して歩く。 左下からは木津川の清流が涼しげな音を立てているが、また、木々は陽にまぶしく輝いていたが、ただ、車を押す気力のみで鑑賞する余裕など全くなかった。
行けども行けども上り坂、二人とも精神力の限界に挑戦してひたすら頑張った。
14:30出発、少し進むとすぐに街並みに入り、ようやく下り坂となる。 昼食を終えて15:00、甲賀に向けて出発。甲賀への道は地道でったため、往来する自動車による砂ほこりで最悪の状態であった。 |
甲賀流忍者屋敷は甲賀町にあると思ったが、事実はその奥の甲南町だとのこと。予定が大幅に狂ってしまった。 |
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三重県と滋賀県の境
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あまりの悪路に引き返そうとしたくらいであったが、計画した意味がなくなるので、鞭打って走る。 | |
16:15>忍者屋敷着、@70円払って屋敷内を案内してもらう。 管理人の老人に「名古屋から来た」と話すと、歓待してくれた。
この写真は少し知能遅れがありそうな少年に撮ってもらう。 この忍者屋敷は約280年前に建てられたもので、県の重要文化財として保存されている。 この甲賀流とその隣には伊賀流の本元があり、同地区に集まったのは地理的条件という。 しかし、忍者精神についてこう言っていた。「忍術とは決して人を欺くものではなく、厳しい修練によって他の人より強い精神力を持つことで攻撃から身を守るための集団防衛手段にほかならない。決して攻撃するためのものではない」と。 これが時の権力者に利用され、戦乱の世に華々しく活躍することとなるのであった。 17:00>忍者屋敷発 再び砂利と石ころ道を戻るが、徐々に疲れが出てきて、もはや惰性でしか走れない。 18:15>与野着
その女主人は飯のほかに汁物まで用意してくれた。感謝で胸がいっぱいであった。 人の善意に触れ・・・・ 支出>ビール:240円、世話料:500円(翌日のパンと牛乳を含む) |
5:30>起床<睡眠十分で疲れはなくなり、体調は絶好調 | |
7:00>出発<出発準備も終わり、世話になった森川さんに重ねてお礼を申し上げる。 | |
世話になった森川商店の前で | 8:00>上野市の入口に到着。 久しぶりに繁華街に入る。 道標の前でかわい子ちゃんに撮ってもらう。 |
8:15>上野公園<今日も暑い!しばらく休憩する。上野城は開城前であったので芭蕉俳聖堂を先に見学。 立派な公園で、施設もよく整い、適当な大きさとも相まって憩いの場所として最適である。 |
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上野城登閣(入場券@50円) | |
さすが忍者発祥の地だけあり、城の抜け道を通って四方5Kmに及ぶ連絡路が作られているとのこと | |
正面に城内井戸が掘られている | 城内の階段 |
上野城天守より市内を望む
続いて、伊賀流忍術発祥の地「忍者屋敷」見物(@50円)
この屋敷は別のところから移設したもので、元は田畑の中になんの変哲もなく建てられた一軒の農家の如く見えるものであった。 しかし、現在はその素朴な雰囲気もない。 わずかに、内部に残された当時の傷跡が古きを物語っていた。 甲賀屋敷に比べると、格段に商業化されている。ここでの記念写真は自分の失敗によりフィルムを駄目にした。(最近はカートリッジ式16mmカメラを使い慣れてる所為で、写し終るとそのまま裏蓋を開けてしまう癖になっている) ここで元気一本オロナミンCをぐっと飲み干す(@120円) |
9:30>荒木又右衛門の36人切りで有名な「鍵屋の辻」着 | 戦勝記念か?、軍人表彰記念か?よく解らない場所で記念写真 |
鍵屋の辻「数馬茶屋」で休憩>きれいな小公園<池もあり、気持がよい。 | |
みぎ伊勢、ひだり奈良 | |
10:00>鍵屋の辻出発
再び地道の悪路に挑戦。灼熱の炎天下、再三小休止
三重県と奈良県の県境>月瀬村入口
ここまでは苦難の登り坂。途中、力尽きてペダルが踏めず、歩く。
が、ここからは爽快な下り坂>教訓:苦あれば楽あり
11:30>月瀬梅林着 民家でのどを潤し、乾ききった身体に生気を甦らす。 しかし、川は激流の如く流れは速く、眼前の橋は無残にも流されて鉄骨がむき出しだ! さっぱりした!気持ちがひき締まり、身体の奥底から新しい活力がわき上がってくる。 橋前の売店で昼食。 昼食は桑名で買ったらーめんを作ってもらい、さらにパンと牛乳を食べた(320円) 14:00>今日の目的地木津へ向け出発 どうしようもない山道で、見字通りクロスカントリーコースである。 池田君は相変わらず、マイペースで遠く後方よりついてくる。 と、突然、暗雲がみるみる広がり、今にもこぼれ落ちそうになった。 とうとう降り出した!大粒の雨が少しづつ次第に増え、あっという間にバケツをぶっちゃけたように”どど、どうーーーー”と落ちてくる。
避難する場所などどこにもない。勇気を出して全速力で民家のある柳生村まで走った。
完全武装態勢で見栄も外聞もなく、ただただ大自然の猛威に素手で抵抗する(−−〆)
この雨で恵みを受けたのは作物や大地だけではない。当の我々にはこの上もなく感謝の雨であった。とにかく涼しくなった!このことが何よりの恵みである。
今度は急な下り坂だ!登りも苦しいが、下りの連続は別の意味で苦痛である。 笠置町を過ぎて国道163号を一路西へ>17:00 18:00>木津町着 あたりは薄暗く、再び雨が降る。空は雨雲にどっぷり覆われ、不安で落ち着かない。 早速、晩飯にと町に出る。その前に泥にまみれた自転車を洗い給油する。 しかしながら最終的には我々の身体より自転車のほうがより大切であることに気がついた。人間は休めばまた動けるが、自転車は休んだだけでは動かないのである。
晩飯の献立 食事の後、パチンコすれどもついてなし」!ちょい。 22:00>就寝<涼しく、ぐっすり眠れそうだ(^o^) |
6:00>起床、出発準備
7:00>署員にお礼のあいさつをして出発
木津署武道館前で記念写真
途中、パンと牛乳で朝食
8:30>奈良市内着
時々小雨のぱらつく嫌な天気である。
「小雨に煙る奈良もまた楽しからずや」などと気休め言って気分を紛らす。
朝起きて、お互いを見つめると二人とも「ムクミ」がでている。
疲労のせいであろう!?瞼が重く、かったるい感じである。
正倉院 → 東大寺(大仏殿) → 二月堂 → 三月堂 → 若草山 → 春日大社 → 興福寺(五重塔)
正倉院は外から眺めるだけで、大仏殿に入る。
大仏殿は最古の木造建築物だけあって時代の経過が感じられる。
しかし、お世辞にもきれいとは言えない。周囲の緑との調和がとれていない。
「汚れた倉庫」というのが率直な感想である。
薄暗い殿内>どこに腰をおろしているの?
線香をたてる。なぜか、外にこのような木造の仏像が鎮座している。さぞかしえらい坊さんなのであろう? | |
若草山に抜ける途中には、 このような高床式で校倉造の小屋が点々と見られる。 |
苔むした石燈籠を背景に記念写真 苔と道が色彩豊かに調和し、カラー写真でないのが残念! |
さて、若草山から興福寺までは鹿しか鹿の歓迎だ(^o^) 早朝でもあり、まだ山は開いてなかった。 |
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興福寺五重塔の下で鹿と一緒に休憩 | |
日曜日でもあるのか大勢の観光客でいっぱいだった。その中にあって、我々二人の容姿はあまりに貧弱である。古都奈良に対しても不釣り合いかつ、大変失礼なものである。ただ、奈良もやたらと世俗化した。2月堂の舞台から市内を見渡せば容易に理解できる。市民の憩いの場所としては格好に違いない。 少々気になったのは、鹿の図々しさである。人間と見れば寄ってたかって乞食のように煎餅を強要する。いわば、鹿組暴力団のタカリであり、全くもって”ビックリ仰天” 10:00>ここであまり遊んでいる時間はない。次の目的地「吉野山」に向けて出発。 国鉄奈良駅>古都奈良の風情一杯の駅です 空模様が次第に悪くなり、橿原市内の入口で本降りになってしまった。 11:30>昼食<久しぶりにうどんを食べる。美味かったのなんのって(^o^)/ 近くに県立医大付属病院があった。この待合室の長椅子を占拠し、横になる。 13:30>出発
外苑は立派な総合公園で植物園、歴史館等施設は完備している。
芦原トンネル前の芦原峠は出来たての舗装道路であったが、延々と続く坂道に自転車を漕ぐことができず、とうとう歩いてしまった。 トンネル入り口にて小休止。 トンネルから流れ出る清水をタオルに浸し頭を冷やす。 それもそのはず、ちょうどトンネルの中央部が峠になっているので、両方から来る車が「なんだ坂こんな坂」と、低速で喘ぎながら排気ガスをいっぱい吐き出しながら登ってくるからであった。トンネルを出ると約4Kmほど下り一方になる。この間、一度もペダルを踏むことがなかった。楽チン楽チン(^J^) 吉野川に沿って、大淀町土田から国道169号に入るとすぐ吉野橋に到着。
アチコチ見物しようと思ったが、とにかく必要なのは鋭気である。そこで、川原に出て夕食の支度に取り掛かる。川原には先客が大勢テントを張っており、川で泳いでいる者もいた。二人は初のキャンプができると大きな期待を持った。飯は飯盒で、燃料は薪。
食後、隣のグループがキャンプファイヤを始めたので、一緒に楽しんだ。 21:30頃、雨の気配を感じたので確認すると、ポツポツ降りだした。 |
6:00>起床
7:200>吉野神宮めぐりのため桜橋付近の八百屋に装備を預け、 しかし、酷暑よりははるかに身体にはやさしい。 言うまでもなく吉野は桜の名所である。 |
銅の大鳥居を経て、仁王門に上り、蔵王堂を通り抜けて土砂降りの雨の中をひたすら前進する。
いよいよ如意輪堂への入り口にさしかかる。
ここまでは上り一本であったが如意輪堂への道は平坦路で車が1台通れるほどの幅がある。
しばらく右に左に蛇行しながら進むと石段が見える。そこが「如意輪寺」であることはすぐに分かった。
雨降りの中、観光客もまばらでお堂は扉を閉ざしていた。
我々の目的は観光ではない。肉体と精神の限界に挑戦することである。
二人の服装はボロボロで不謹慎極まりない。早々に失礼する>9:00
如意輪寺>ひっそりとしたなかに過去の哀史が漂う。 | |
宝物殿 | これより後醍醐天皇陵へ |
帰路、金峰山寺蔵王堂を見学 | |
国宝の仁王門>この力士像は運慶、湛慶の作といわれる。 | |
蔵王堂本堂は木造建築物としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさである。 | |
途中、池田君の前ブレーキ故障、最徐行。下り坂では濡れた身体に冷風が吹き付け寒いほどだ。下界に降りるとすぐにブレーキを直し、八百屋に直行。 八百屋のおばさんにビニール袋をたくさんもらい、装備を完全に覆い、また身体もできるだけ濡れないようにあの手この手で包む。極めつけが特製ビニールパンツだ! その恰好を互いに見回して腹を抱えて大笑い。パンと牛乳で軽く朝食。 ここで麦わら帽子の存在がいかに大きなものであるか改めて分かった。 10:00>名張に向けて、吉野出発 11:00>三茶屋到着。休憩もそこそこに前進。 大宇蛇の町並に入って久しぶりに舗装路を見る。もう何年も砂利道ばかり走って来たように思う。 13:30>出発 14:00>楱原駅前着 池田君の車の後輪が緩みだして車輪にガタが生じた。全く心細い状況で進む。 一つの坂を越し曲がり角を回ると、また同じような坂道。再び全身の力を振り絞って立ち向かう。次の角を越すとまた次の角まで登り坂がある。 顔は真下を見たまま、ただひたすらにペダルを踏んだ。 精神力は肉体力よりもはるかに偉大であり、貴重なものである。 その前に池田君の自転車を修理しなければならない。 雨はますます激しさを増してきた。二人とも骨までずぶ濡れだ!
大野寺前に流れる宇蛇川支流。正面の山肌に大石仏が掘り込んである ここでキャンプをしていたグループが雨のため狭苦しいテントの中で小さくなっていた。
ここから室生寺まで一本道。しかし、道は平坦だがなにせ山道、さらに自動車がやたらに通って、その都度泥水を浴びせられふんだりけったりである。 この道はわずか7Kmあまりであるが景色に変化がないため、非常に長く感じた。 16:30>室生寺到着 うっそうと茂った草木になかから優雅な姿が二人の前に現れ、思わず目を見張った。
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車まで戻って帰り仕度をしていると、土産物売り場の女性が頼みもしないのにお茶をいれてくれた。冷えた身体ににはなによりで、うまかった。
17:00出発 今来た道を引き返し、18:00に国道165号にたどりつく。これから名張まで11.5Km。 雨脚は一向に衰えず、飢えと寒さと疲れが一層激しく襲いかかる。 これからがもっと大変である。寝所を搜さなければならないからだ。
装備をお堂に運び込み、身体を洗い、下着を全部取り換え、トレパンで冷えた体を温めようとした。ここで初めて池田君の持ってきたロウソクが役に立った。
そういえば今日は終戦記念日。特集番組で過去の歴代首相の思い出を放送していた。
今日の道程を振り返ると、後半は池田君を無視し、一人旅のような気持ちで走り続けた。池田君のペースに合わせていたら、当初の目的は達成できない。
明日は今日よりもっと辛い日になるであろう。青山高原を自転車で超えるのであるから |
6:30>起床、雨は止んでいたが安心できない空模様であった。 7:30>装備はここにおいて赤目四十八滝へ 今回の旅で自然の美しさを最も感じたのはこの滝であった。 ここで撮ったフィルムはなぜか残っていなかった。駄目になったのでもなく、全くないのである。フィルムを装填せずに撮影していたようだ(@_@;)誠に残念! 季節的には秋の紅葉の時期が最適では思った。紅葉する山の間を細く流れ、激しく落下する滝、この取り合わせは考えただけでも興奮する。 |
写真がないので、脳裏に焼き付けた滝の様子をアルバムの1頁に描く。
去りがたい気持ちでいっぱいだったが、まだ先は長い。
帰りは赤目四十八滝入口にある「延寿院」に立ち寄る。 土産物店でアイスクリームを食べ、お土産に木の根っこで作った「牛セル」を買った。 品物は44年たった今でも残してあった(収納庫の奥にぶら下がっていた) 左下にタバコを差し込む穴がある。 タバコを吸わない私が、何でこんなものを買ったのか不思議である。 雨はどうやら止んだようだ(^J^) 薄日が差してきた。 駅前の売店でパンと牛乳の軽食を摂る。 今日は久しぶりに暑くなりそうだ。
国道165号は国道とは言え、あまりにお粗末な道路だ!小型車がやっと通れるほどの道幅しかないところもある。12:00頃、オアシスのような街並みに入った。
この間2日ぶりで少し汗を出し、雨でぬれた身体から水分が抜けて、身軽になったように感じた。汗をかくということは本当に素晴らしいことだ! 道は雨で流され、石ころが露出し、山肌からあふれた水がドードーと流れ出ていた。
やっとの思いで近鉄西青山駅に着いたが、駅付近の売店はシーズンオフのため閉まっており、食事をすることもできない。小休止のあと再び自転車を推して進む。 尽きることのないダラダラ坂を無言で、無心で、孤独にペダルを踏む。 道標を見て仰天!谷底に突き落とされたようなショックだ! しばらく休んだが、ぐずぐずしてはおれない。道を左に折れ、本格的な山道に入る。
やっと峠の頂きらしき場所にたどりつき小休止。白山町の標識がなんとなく立っていた。腹が減ったので何か食べるものがないかとあたりを見渡す。と、野イチゴが目につき、もぎて食べる。 下りの道も登りの道と同じく、石ころだらけであった。従ってスイスイとは進まない。
石ころの一つ一つをゴトンゴトンと乗り越えながら、また、ある時はあふれた雨水が道いっぱいに流れ出る中を船に乗っているような気分でゆっくりゆっくりと進む。 小さな山間の村であったが、やっと休むことができる。時は14:30を過ぎていた。 少しでも腹に入れ体力をつけねばならない。しかし、疲労困憊状態では喉を通らない。 ただ、道は今までとは雲泥の差で良好だ(^J^) 道は人間の生活において、文明の発達において欠くことのできない重要な存在である。 これからの道は比較的平坦で、変化に乏しかった。そのためかずいぶん長く感じた。 繁華街を左に折れ少し進むと、近鉄久居町駅前に出た>16:00 津まで約5Km。足は重いが、心は軽い。目的の大半は無事通過した(^J^) 二人は今までの疲れも吹っ飛んだように快調に走った>17:00 ますます快調に走る。ほとんど疲れは感じない。
池田君を無理やり引っ張って走り続ける。右手は海岸線だ、休もうと思えばいつでも休めるが、力の限り計画を成し遂げたいのである。懸命であった。
18:00>やっと海水浴場の入口に達した。やれやれ、これで今日一日が終わる。
さて、どこをネグラにしようかと辺りを見回しながら歩き回る。
最後の夜ということで盛大な食事を計画し、池田君が買い出しに出かけた。
さていよいよ食事だ!思えば今日は朝から腹応えのあるものは何も食べていない。
注釈>2010年6月25日追加
ここにアルバイトで四日市から来ている男がいた。この男は(正体不明人間)二人の計画とこれまでの実行力に感銘してしきりに羨ましがっていた。
彼曰く、「登山家はなぜ山に登るのか?、という質問に対して、「そこに山があるからだ」という。こんな曖昧な漠然とした態度で山登りするのは自然に対する冒涜であり、このような考え方で山に対処するから事故が絶えないのである。自分の体力と精神力の限界を知るために挑戦するのであるから、何も登山でなくてもよいのである」、と。 大自然を甘く見るのは危険である。その道の達人であってもだ!
夜はこの町で盆踊り大会があるとのこと。彼は夜の海水浴場を警備する「ふくろう部隊」の一員でもあり、夜になるとにわかに忙しくなるという。 自分の子供の頃の夏休みの最大の楽しみは海水浴と盆踊りであった。 |
7:00>起床<朝食は昨晩の残りを食べる。 8:00>出発 昨夜、よくしゃべった彼が四日市から自転車で、毎日約1時間ほどで通っているということを聞いたので、自分はどのくらいかかるかその記録に挑戦した(但し、彼は空車である 追分まで約12.5Kmである。最初からハイピッチで走り、池田君の存在を無視した。
ただ、自転車を下りてもしばらくはペダルを踏んでいるような感覚で、足が上下に振れている。それとまともに真っすぐ歩くことができなかった。足が地に着かないのである。
四日市の走行では公害の事実を体感した。四日市の公害問題は新聞テレビなどで報道されており、知るところであったが遭遇してみるとなるほど凄まじい限りであった。
これではこの付近の住民の呼吸器が正常に働くはずがない。徐々に心肺機能が劣化して少しの運動にも耐えられない弱弱しい肉体となる事は火を見るよりも明らかであった。
雨が降り出した。夕立であろう、ほっとけ!!最早、濡れることなど屁でもない。 長良、木曽両川を越すと料金徴収所があった。自転車の通行料20円であったが係員が採りに来ないので激しく降る雨の中に飛び出した。
雨が上がって太陽が顔を出し、蒸し暑くなってきた。この道路は川が多いのかやたらに橋が多い。橋は道路より高くなっているので、その度に苦労しなければならない。
見えてきた(^o^)/名古屋南のシンボル、火力発電所の煙突4本が! どこかで水分を補給しないと、ぶっ倒れてしまう。 無性にお茶が飲みたくなった。食堂には冷えた麦茶が大きなやかんに入っている。 あまり長く休むと動くのがつらくなる。ここいらで出発だ!
再び(これが最後になるだろう。もう「再び」という言葉を使うことはない)、風と太陽と疲労に向かって鞭打たねばならない。ここで負けるわけにはいかない。 11:30>木下自転車店に到着
予定より3時間早かった。二人とも疲労困憊状態であったが、とにかく無事に帰ってきた
計画をほぼ100%実行した。苦しい時もひるまず忠実に計画を履行してきた。 「二人とも無事、ただ今戻りました。身体は多少ガタついていますが、とにかく無事です。 |
今回の自転車旅行が成功したのは、多くの暖かく・優しく・心のこもった、もてなしの御蔭である。ここに改めてお名前をお聞きせず失礼した方々に心から感謝いたします。
今回の試みがこれほど苦しいものとは考えてもみなかった。 この旅行は自分に偉大な力を与え、収穫をもたらした。 完1966年9月20日(火)午後11:30 |