自 転 車 旅 行 記

1966.8.11 〜 8.17

名古屋 → 鈴鹿 → 京都 → 奈良 → 青山高原 → 名古屋

この旅行記は旅行後、約1ヶ月経過した1966年9月20日に完成した。

これを、44年後の2010年6月 30日までにデジタル化し、インターネットにアップしたものである。

それでは、あえて猛暑の真夏に挑戦した苦闘の自転車旅行をご覧ください。

この自転車旅行を計画したのは昭和41年1月(当時25歳)であった。       
目的は自分の体力の限界を知るためであった。
社会人となって数年経過したが、日常の仕事とサラリーマン生活は精神的苦痛が多く、スポーツ少年だった私にとって、ストレス一杯であった。

「健全なる精神は強靭な肉体に宿る」と言われる。ビジネス社会のストレスに対抗できる強靭な肉体を構築することが重要だと考え、自分の体に過酷な試練を与え、これに耐えられるかどうか確認することにした。

当初の計画は、奈良から吉野経由して国道169号、吉野熊野国立公園、熊野川を南下し、熊野市を通って伊勢市への道程であったが6日間で600Km強はいかにも困難であり変更した。

計画途中で職場の池田君が参画を希望したので、2人で実行することとなった。一人よりはずっと心強い。時は灼熱地獄のお盆休みである。
無事帰還できるかどうか?いざ出発!

旅 程

月日(曜日)

道  程

走行距離 使ったお金
8月11日(木) 名古屋 → 桑名 26Km 4880円
8月12日(金) 桑名 → 伊賀 87Km 1355円
8月13日(土) 伊賀 → 木津 62.5Km 1545円
8月14日(日) 木津 → 吉野 48.5Km 850円
8月15日(月) 吉野 → 名張 78Km 1320円
8月16日(火) 名張 → 鼓ヶ浦 79Km 1760円
8月17日(水) 鼓ヶ浦 → 名古屋 53Km 100円

合計

  434Km 11,810円
@5,905円

装 備

自転車>出発当日、内田橋の木下自転車店で借りる<3段変速ツアー車
テント>2人用蚊帳で代用、蚊取り線香、寝袋>山岳クラブより借用

食事>灯油コンロ、キャンピング用鍋、飯盒、各種食器、調味料、米2Kg
衣類>下着替え、上下2組、トレパン、ショートパンツ、スポーツシャツ

水筒、タオル、洗面具、マッチ、新聞紙、トイレットペーパー、薬品、手帳、筆記具、懐中電灯、ハーモニカ、地図(道路地図、観光地図、コース地図)
カメラ、ラジオ(池田君)、傘、ビニール袋各種

以上を2個のナップサックと1個のリュックサックに納める。


出発日>1966年8月11日(木)  26Km

井沢の市川氏に貸自転車店まで送ってもらう。
貸自転車店(内田橋の木下自転車店)は3段変速ツアー車
装備は後部荷台に寝袋を挟んでサックを被せる。
ハンドルに買い物かごを設置し、小物を入れる。

自転車店出発>18時頃

出発が予定より少し遅れたため弥富付近で日没。桑名市内に20時頃着

予定では富田浜にて泊る予定であったが、暑さと空腹で一時も早く寝場所を探す必要があった。池田君の心当たりをさまよい結局、桑名駅裏の大福田寺に御厄介になる。

お寺の庭を貸してもらうつもりであったが、お庫裡さんは我々を快く受入れ、空き部屋まで世話してくれた。飯の支度にさっそく取り掛かる。
ご飯ができるまでの間に井戸を借り、一日の汗を流す。

夕食はかれこれ21時30分頃になっていた。
灯油コンロの効率悪く手間取る。
池田君の目分量により飯の量は多すぎ、半分以上余ってしまう。
これで次回からのコメの量が解った。

教訓>失敗は成功の母

空腹の度が過ぎて、あまり美味くなかった。その後のラーメンも・・・・・

暑苦しく眠ることができず、二人とも寝返りばかりであった。
自分は外に出て水を浴び、しばらく虫の鳴き声と星の輝きに集中せり。
明日は厳しい鈴鹿越えだ(−−〆)心配でならない。
結局、自分は一睡もできなかった。

本日の支出>4,880円

自転車借り賃>@2000円x2台=4000円
フィルム>36枚撮りx2+20撮りx2=540円
らーめん、缶詰、モヤシ、粉末ジュース、チョコレート、もも>340円

1966年8月12日(金) 快晴  87Km

6:00>起床

7:00>出発
朝の爽やかな空気をついて・・・・まったく爽快である。
しばしの幸福感もわずかに2時間。後は炎熱地獄と豹変した。
途中、ナップザックに入った米袋が車輪のスポークに挟まり、破損したかと仰天!

8:00>四日市着
パンと牛乳という簡単な朝食を摂る>115円
一路、伊賀へ向け排ガスと太陽とアスファルトに囲まれ、
いよいよ苦難の武者修行とはなり申した。ポポンポンポン・・・・・

途中、関西線との陸橋で休憩
この頂までは水を飲みたい一心であった。苦しかったー!
 

9:45>亀山のインターチェンジ着
池田君はかなり遅れる。そこで、ドライブインにて大休止。
牛乳飲み(@50円)、WaterCoolerの水をポットにいれる。
昨夜のにぎりめしは暑さのため異臭を発する。捨てる。

遠景は名阪国道への誘導路
 

国道1号をしばらく進むと、左に折れる道がある。これが伊賀へ抜ける鈴鹿の山道である。
入り口にて日帰りコースらしき自転車グループに出会ったが、暑さのためか鼻血を出していた。

亀山インターチェンジから国道1号から関町に進む。ここで伊賀に向う地道に入る。
この道は鈴鹿山脈に沿っており、ムチャクチャ悪い道である。
まるで砂漠のように体をとられ、ペダルは鉛のように重く、極度に疲れる。また、坂道は天にも昇るがごとく遠く、汗とほこりにまみれ、再三にわたり車を押して歩く。
左下からは木津川の清流が涼しげな音を立てているが、また、木々は陽にまぶしく輝いていたが、ただ、車を押す気力のみで鑑賞する余裕など全くなかった。

行けども行けども上り坂、二人とも精神力の限界に挑戦してひたすら頑張った。
正午頃には民家のある町に着く予定であったが、現在必要なことは急速である。
途中、木陰を見つけて休むことにした。涼風が疲れた身体を癒し、この時ほど大自然に感謝したことはない。しかし、風が強いため灯油コンロの火が消され昼食が作れない。
やむなく、お昼抜きで昼寝(@_@;)

14:30出発、少し進むとすぐに街並みに入り、ようやく下り坂となる。
伊賀町の菓子屋で昼食として、パン・牛乳・スイカを食べる>290円
喉は絶えず渇いて満たされず、水はどれだけたくさん飲んでも、効果はなかった。

昼食を終えて15:00、甲賀に向けて出発。甲賀への道は地道でったため、往来する自動車による砂ほこりで最悪の状態であった。

 

甲賀流忍者屋敷は甲賀町にあると思ったが、事実はその奥の甲南町だとのこと。予定が大幅に狂ってしまった。

 

三重県と滋賀県の境

 
あまりの悪路に引き返そうとしたくらいであったが、計画した意味がなくなるので、鞭打って走る。
 
16:15>忍者屋敷着、@70円払って屋敷内を案内してもらう。
管理人の老人に「名古屋から来た」と話すと、歓待してくれた。

この写真は少し知能遅れがありそうな少年に撮ってもらう。

この忍者屋敷は約280年前に建てられたもので、県の重要文化財として保存されている。
近年の忍者ブームにより来訪者も多い。記念名簿には九州や関東地方からもあった。

この甲賀流とその隣には伊賀流の本元があり、同地区に集まったのは地理的条件という。
この地区は山に囲まれ就業の場所としても最適である。また、マキビシに使う「菱の実」の産地でもある。

しかし、忍者精神についてこう言っていた。「忍術とは決して人を欺くものではなく、厳しい修練によって他の人より強い精神力を持つことで攻撃から身を守るための集団防衛手段にほかならない。決して攻撃するためのものではない」と。

これが時の権力者に利用され、戦乱の世に華々しく活躍することとなるのであった。
当時とても忍者となったのは普通の人間ではなく「性格異常者」でなければ訓練の厳しさについて行けなかったであろう。
甲賀流の後継者は2年前に世を去り、現在はこの屋敷が残っているだけである。
しかし”カラクリ”は全く見事というほかなく、感嘆あるのみであった。

17:00>忍者屋敷発
途中、ガソリンスタンドにて灯油20円買う。

再び砂利と石ころ道を戻るが、徐々に疲れが出てきて、もはや惰性でしか走れない。
山間部ばかりで行けども行けども「ねぐら」が見つからない。
疲れは一層重くのしかかるが、気力でただひたすらペダルを踏んだ。池田君はたえず遅れる。
たびたび道を尋ねるが、与野のキャンプ場しか休む場所がなさそう(@_@;)
絶望の内にも休息を夢見てひたすら走る。

18:15>与野着
辺りは薄暗く、空腹と疲労で言葉も出ない。食料品店がないため、池田君をキャンプ場で休ませ、単身走る。民家を訪れたが、皆貧しく野菜すらもなかった。
しかし、神は二人を見捨てなかった。しばらくして雑貨屋があったのでその女店主に事情を話し助けを求めた。飯を作る気力もなく、二人はただただ眠りたいだけだった。(昨夜は一睡もなし)

その女主人は飯のほかに汁物まで用意してくれた。感謝で胸がいっぱいであった。
その上、風呂まで沸かしてくれた。2日間の汗とほこりをきれいさっぱり落とし、髭をそってさっぱりした。飯前に隣の酒屋でビールを飲む。そのビールのうまさといったら筆舌に尽くし難し。
ビールが全身に浸みわたり、生への実感が湧き上がった。
その夜は涼しく、二人とも死人ごとく眠ってしまった。

人の善意に触れ・・・・

支出>ビール:240円、世話料:500円(翌日のパンと牛乳を含む)

1966年8月13日(土) 晴れのち雨  62.5Km

5:30>起床<睡眠十分で疲れはなくなり、体調は絶好調
 
7:00>出発<出発準備も終わり、世話になった森川さんに重ねてお礼を申し上げる。
 
世話になった森川商店の前で 8:00>上野市の入口に到着。
久しぶりに繁華街に入る。
道標の前でかわい子ちゃんに撮ってもらう。
 
8:15>上野公園<今日も暑い!しばらく休憩する。上野城は開城前であったので芭蕉俳聖堂を先に見学。
立派な公園で、施設もよく整い、適当な大きさとも相まって憩いの場所として最適である。
 
 
上野城登閣(入場券@50円)
 
さすが忍者発祥の地だけあり、城の抜け道を通って四方5Kmに及ぶ連絡路が作られているとのこと
   
正面に城内井戸が掘られている 城内の階段

上野城天守より市内を望む


 

続いて、伊賀流忍術発祥の地「忍者屋敷」見物(@50円)

この屋敷は別のところから移設したもので、元は田畑の中になんの変哲もなく建てられた一軒の農家の如く見えるものであった。

しかし、現在はその素朴な雰囲気もない。
ネオン街に建てられたバラックにも似た不釣り合いが妙に気になった。

わずかに、内部に残された当時の傷跡が古きを物語っていた。
また、城内の案内もテープレコーダによる事務的機械的なもので味気ない。

甲賀屋敷に比べると、格段に商業化されている。ここでの記念写真は自分の失敗によりフィルムを駄目にした。(最近はカートリッジ式16mmカメラを使い慣れてる所為で、写し終るとそのまま裏蓋を開けてしまう癖になっている)

ここで元気一本オロナミンCをぐっと飲み干す(@120円)

   
9:30>荒木又右衛門の36人切りで有名な「鍵屋の辻」着 戦勝記念か?、軍人表彰記念か?よく解らない場所で記念写真
鍵屋の辻「数馬茶屋」で休憩>きれいな小公園<池もあり、気持がよい。
   
みぎ伊勢、ひだり奈良

10:00>鍵屋の辻出発

再び地道の悪路に挑戦。灼熱の炎天下、再三小休止

三重県と奈良県の県境>月瀬村入口
ここまでは苦難の登り坂。途中、力尽きてペダルが踏めず、歩く。
が、ここからは爽快な下り坂>教訓:苦あれば楽あり

11:30>月瀬梅林着

民家でのどを潤し、乾ききった身体に生気を甦らす。
遠くに清流の音を感じる。念願の川浴びに胸も弾む。
この辺りは鴬谷と呼ばれる。

しかし、川は激流の如く流れは速く、眼前の橋は無残にも流されて鉄骨がむき出しだ!
最近の大雨で流されたものであろう。我々にはそのようなことは関係ない!
ただただ身体中が水浴びを求めている。岸辺の流れの弱いところで浸る。
素晴らしい気持ちだった!このまま永遠にいたい気持だった!この流れが続く限り・・・

さっぱりした!気持ちがひき締まり、身体の奥底から新しい活力がわき上がってくる。
この世で最も幸福なのは自分一人だけのような気になった。

橋前の売店で昼食。
ちょうどお盆でもあり、この家もいろいろなご馳走で食膳を飾っていた。
久しぶりに子供の頃の盆行事に接し、懐かしかった。
最近では自分の住んでいるところは勿論、あまり見かけなくなっている。
この店に名古屋の千種から里帰りしたという人が居て、懐かしいやら珍しいやらで話し込んでしまった。

昼食は桑名で買ったらーめんを作ってもらい、さらにパンと牛乳を食べた(320円)

14:00>今日の目的地木津へ向け出発

どうしようもない山道で、見字通りクロスカントリーコースである。
太陽は二人の頭上に容赦なく降り注ぎ、喘ぎ喘ぎ走る。
この道はドライブコースらしくガードレールや道標が目立つ。しかし、シーズンオフのためか道路工事関係の車が通る程度で静かなものだった。

池田君は相変わらず、マイペースで遠く後方よりついてくる。

と、突然、暗雲がみるみる広がり、今にもこぼれ落ちそうになった。
素早くビニールにて寝袋を包む。しばらく進むと登り坂も終わり、いよいよペダルを踏むことなく一気に駆け下りる。楽チン楽チン(^o^)/ドンドン下る。
このままずっと下りばかりなら最高にご機嫌だ(^o^)/

とうとう降り出した!大粒の雨が少しづつ次第に増え、あっという間にバケツをぶっちゃけたように”どど、どうーーーー”と落ちてくる。
暑さで加熱した身体が鋼の焼入れの如く、急冷される。続いて起こったのはすさまじい雷鳴だ!二人の頭上に、神の戯れか?大自然の猛威か?70mmよりもシネラマよりも迫力のある素晴らしい音響効果と相まって、眼前に繰り広げられる一大スペクタクルに二人とも色を失い、寿命の縮む思いで、しばし呆然と立ちすくむ。

避難する場所などどこにもない。勇気を出して全速力で民家のある柳生村まで走った。
先ほどの暑さとは一変して、今は全身に雨が浸み込み鳥肌が立つほど寒かった。
一軒の農家に飛び込んでずうずうしくも休憩。30分まったが小降りになった程度で降りやまず。予定通り進むため出発。
ここで大きなビニールシートをもらう(苗代に使ったもので全身を覆うほど大きなものだ)

完全武装態勢で見栄も外聞もなく、ただただ大自然の猛威に素手で抵抗する(−−〆)
ようやく雨も止み太陽も雲間から顔を出し、二人の様子をうかがっている。
ますます快調な下り坂。乾ききった大地も突然の雷雨でビック仰天して所々消化不良を起こしている。

この雨で恵みを受けたのは作物や大地だけではない。当の我々にはこの上もなく感謝の雨であった。とにかく涼しくなった!このことが何よりの恵みである。
焼けつくような猛暑から解放され、快適に走れると思いきや、あにはからん。

今度は急な下り坂だ!登りも苦しいが、下りの連続は別の意味で苦痛である。
ブレーキを握る手がしびれ、関節には今だかって経験したことのない妙な痛みが走る。
手の平が赤く変わり、こらえきれずに休む。

笠置町を過ぎて国道163号を一路西へ>17:00
   

18:00>木津町着

あたりは薄暗く、再び雨が降る。空は雨雲にどっぷり覆われ、不安で落ち着かない。
ネグラを捜しつつ町に入る。寺も目に付いたが国鉄の宿直室に当りを付け、関西線木津駅の駅員に尋ねた。しかし、無情にも体よく断られたが京都府警察木津署を教えてくれた。ここで一発!男は度胸!決死の覚悟で体当たり戦法に出る。
思いのほか頼りになる警察署で、快く裏の武道館を提供してくれた。

早速、晩飯にと町に出る。その前に泥にまみれた自転車を洗い給油する。
まったくお前というやつは、愚痴ひとつこぼさずよく走ってくれた。
”お前が進めばおいらも進む、お前が転べばおいらも転ぶ、俺とおまえは一心同体、切っても切れない仲ではないか”

しかしながら最終的には我々の身体より自転車のほうがより大切であることに気がついた。人間は休めばまた動けるが、自転車は休んだだけでは動かないのである。

晩飯の献立
お好み焼き、赤だし、ビール、トマト

食事の後、パチンコすれどもついてなし」!ちょい。

22:00>就寝<涼しく、ぐっすり眠れそうだ(^o^)

1966年8月14日(日) 曇りときどき雨  48.5Km

6:00>起床、出発準備

7:00>署員にお礼のあいさつをして出発
   
                    木津署武道館前で記念写真

途中、パンと牛乳で朝食

8:30>奈良市内着

時々小雨のぱらつく嫌な天気である。
「小雨に煙る奈良もまた楽しからずや」などと気休め言って気分を紛らす。
朝起きて、お互いを見つめると二人とも「ムクミ」がでている。
疲労のせいであろう!?瞼が重く、かったるい感じである。

正倉院 → 東大寺(大仏殿) → 二月堂 → 三月堂 → 若草山 → 春日大社 → 興福寺(五重塔)

正倉院は外から眺めるだけで、大仏殿に入る。

大仏殿は最古の木造建築物だけあって時代の経過が感じられる。
しかし、お世辞にもきれいとは言えない。周囲の緑との調和がとれていない。
「汚れた倉庫」というのが率直な感想である。

薄暗い殿内>どこに腰をおろしているの?

線香をたてる。なぜか、外にこのような木造の仏像が鎮座している。さぞかしえらい坊さんなのであろう?
   
若草山に抜ける途中には、
このような高床式で校倉造の小屋が点々と見られる。
苔むした石燈籠を背景に記念写真
苔と道が色彩豊かに調和し、カラー写真でないのが残念!
   
さて、若草山から興福寺までは鹿しか鹿の歓迎だ(^o^)
早朝でもあり、まだ山は開いてなかった。
   
興福寺五重塔の下で鹿と一緒に休憩
   
   
日曜日でもあるのか大勢の観光客でいっぱいだった。その中にあって、我々二人の容姿はあまりに貧弱である。古都奈良に対しても不釣り合いかつ、大変失礼なものである。ただ、奈良もやたらと世俗化した。2月堂の舞台から市内を見渡せば容易に理解できる。市民の憩いの場所としては格好に違いない。

少々気になったのは、鹿の図々しさである。人間と見れば寄ってたかって乞食のように煎餅を強要する。いわば、鹿組暴力団のタカリであり、全くもって”ビックリ仰天”

10:00>ここであまり遊んでいる時間はない。次の目的地「吉野山」に向けて出発。
これからは国道24号を一路南下。ご機嫌なり、舗装道路だ!(^o^)
ただ、途中で方向を誤り、道草を食う。

国鉄奈良駅>古都奈良の風情一杯の駅です

空模様が次第に悪くなり、橿原市内の入口で本降りになってしまった。
腹も減ってきたので食堂を捜し始める。

11:30>昼食<久しぶりにうどんを食べる。美味かったのなんのって(^o^)/
これから吉野まで約20Kmであり、急ぐ必要もないので昼寝の場所探し。
”雨は止んでいるが何時落ちてくるかわからないので、屋根の下がいいなあー”

近くに県立医大付属病院があった。この待合室の長椅子を占拠し、横になる。
この頃にもなると”恥ずかしい”というような言葉がこの世に存在しないかのごとく、二人の行動は大胆でしかも服装などにも全く無神経になっていた。
悟りの境地というか、図々しくなったというか、心境は「精神一到何事かならざらん」
病院内を歩き回ったが、かなり広い。購買会でトマトを買って食べる。

13:30>出発
炎天下ではないため昨日のようには疲れない。昼寝もして体調は良好である。
途中、橿原神宮で参拝>ここは神武天皇と皇后を祀る。

外苑は立派な総合公園で植物園、歴史館等施設は完備している。
改めて、外苑の広さに驚愕!また公苑にはアベックがいっぱいだった。
うらやましいなあーー!

芦原トンネル前の芦原峠は出来たての舗装道路であったが、延々と続く坂道に自転車を漕ぐことができず、とうとう歩いてしまった。

トンネル入り口にて小休止。

トンネルから流れ出る清水をタオルに浸し頭を冷やす。
トンネル内は自動車のエンジン音が反響してものすごい音となり、また排気ガスの臭いと熱気が充満して吐き気を催すほどであった。

それもそのはず、ちょうどトンネルの中央部が峠になっているので、両方から来る車が「なんだ坂こんな坂」と、低速で喘ぎながら排気ガスをいっぱい吐き出しながら登ってくるからであった。トンネルを出ると約4Kmほど下り一方になる。この間、一度もペダルを踏むことがなかった。楽チン楽チン(^J^)

吉野川に沿って、大淀町土田から国道169号に入るとすぐ吉野橋に到着。
その足で吉野神宮入口まで進む>15:30着

アチコチ見物しようと思ったが、とにかく必要なのは鋭気である。そこで、川原に出て夕食の支度に取り掛かる。川原には先客が大勢テントを張っており、川で泳いでいる者もいた。二人は初のキャンプができると大きな期待を持った。飯は飯盒で、燃料は薪。
おかずは、生揚げ、ピーマン、ウインナーソーセージ、たまごのごちゃ煮で、高価なビールでささやかに無事を祝福し、旺盛に食べた。

食後、隣のグループがキャンプファイヤを始めたので、一緒に楽しんだ。
ところが、我々が寝ようと思った頃、隣のテントで酒盛りが始まった。
大声で歌を歌い、みだらな言葉を叫び、やかましくて眠れなかった。

21:30頃、雨の気配を感じたので確認すると、ポツポツ降りだした。
大急ぎで蚊帳をたたみ、引っ越しの準備。かねてからいざという時のために避難場所を見つけておいた。それは学校の自転車置き場である。
雨は翌朝まで降り続いた。二人は川原から移動したことを本当に幸運だと喜んだ。

1966年8月15日(月) 雨  78Km

6:00>起床

7:200>吉野神宮めぐりのため桜橋付近の八百屋に装備を預け、
空車で降りしきる雨の中に飛び出す。
この雨は本土に接近した台風の影響とのことで止みそうもない。

しかし、酷暑よりははるかに身体にはやさしい。
雨だからと言って休むわけにはいかない。
最終目的地(名古屋)まではまだ遠い。
自分の力を試すには大自然の試練は格好である。

言うまでもなく吉野は桜の名所である。
山全体が桜でおおわれ、道の両側も桜並木でいっぱいとなる。
時間の余裕があまりないので中千本付近までと決める。

銅の大鳥居を経て、仁王門に上り、蔵王堂を通り抜けて土砂降りの雨の中をひたすら前進する。

いよいよ如意輪堂への入り口にさしかかる。
ここまでは上り一本であったが如意輪堂への道は平坦路で車が1台通れるほどの幅がある。
しばらく右に左に蛇行しながら進むと石段が見える。そこが「如意輪寺」であることはすぐに分かった。
雨降りの中、観光客もまばらでお堂は扉を閉ざしていた。

我々の目的は観光ではない。肉体と精神の限界に挑戦することである。
二人の服装はボロボロで不謹慎極まりない。早々に失礼する>9:00

如意輪寺>ひっそりとしたなかに過去の哀史が漂う。
   
宝物殿 これより後醍醐天皇陵へ
   
帰路、金峰山寺蔵王堂を見学
国宝の仁王門>この力士像は運慶、湛慶の作といわれる。
   
蔵王堂本堂は木造建築物としては東大寺大仏殿に次ぐ大きさである。

途中、池田君の前ブレーキ故障、最徐行。下り坂では濡れた身体に冷風が吹き付け寒いほどだ。下界に降りるとすぐにブレーキを直し、八百屋に直行。
八百屋のおばさんにビニール袋をたくさんもらい、装備を完全に覆い、また身体もできるだけ濡れないようにあの手この手で包む。極めつけが特製ビニールパンツだ!
その恰好を互いに見回して腹を抱えて大笑い。パンと牛乳で軽く朝食。

ここで麦わら帽子の存在がいかに大きなものであるか改めて分かった。
炎暑の折は日除けとして、雨天の折は雨傘として、真に重宝なのである。

10:00>名張に向けて、吉野出発
当初の計画では「時間的余裕がある限り熊野川を下ってみよう」としていたが、このような台風空ではそれも叶わず断念した。再び悪路に挑む。

11:00>三茶屋到着。休憩もそこそこに前進。
これまでかなりきつい道であったが、さほど疲労感がないのは太陽が顔を見せていないからか?喉もあまり乾かず、快調である。しかし、道は雨により一層悪くなりペースを上げることができない。また、これまでの蓄積した疲労が時間の経過とともに徐々に表面に出てくるのが自分でもよく解る。

大宇蛇の町並に入って久しぶりに舗装路を見る。もう何年も砂利道ばかり走って来たように思う。
12:30>この町で昼食をとることにする。
街角の民家に自転車を預け、おぼつかない足取りで飯屋に入る。
自転車を預けた民家でまたまたビニール袋をたくさんもらい装備を雨から確実に守る。

13:30>出発
雨は小降りになった。二人にとってもっとうれしいことは道が舗装されていることである。

14:00>楱原駅前着
このまま快調に行けると思ったが、国道165号は最悪の道路状態であった。
山の中の一本道で、これが国道??といぶかしく思える最低の道であった。
泥んこ、水たまりばかりで、自動車が容赦なく泥をはね、全身泥まみれである。

池田君の車の後輪が緩みだして車輪にガタが生じた。全く心細い状況で進む。
途中またまた試練の坂道に会い、雨で重くなった車を、はたまた疲れた体を、ペダルに託して無心に、ひたすら踏み続ける。

一つの坂を越し曲がり角を回ると、また同じような坂道。再び全身の力を振り絞って立ち向かう。次の角を越すとまた次の角まで登り坂がある。
なにくそ敗けるものか!!神が自分に与えた試練か?、運命のいたずらか?どちらでもよい!相手にとって不足はない。日本男児の根性を見せてやるわ!
次の角もまた登り坂だ!へこたれるな!その次も、またその次も・・・・・・・・・・・・

顔は真下を見たまま、ただひたすらにペダルを踏んだ。
すると、突然ペダルが軽くなった。坂を登りきったのだ!
その時、深い深い井戸に吸い込まれるように一瞬意識を失いかけた。
その勝利感!自分の力を信じることの尊さなど、大声で叫びたい気持になった。

精神力は肉体力よりもはるかに偉大であり、貴重なものである。
どんな苦痛もそれにぶつかったならば敢然と立ち向かい安易に妥協しない強靭な意志を持たなければならない。
池田君ははるかに遅れる。彼を待って、しばらく休む。
しばらく165号を進むと右に入る道に出た。これが室生寺への入り口である>15:30

その前に池田君の自転車を修理しなければならない。
近所の自転車店で道具を借りて直す(お休みの日だった)

雨はますます激しさを増してきた。二人とも骨までずぶ濡れだ!
途中、大野寺に立ち寄り、大石仏を見物。
大野寺そのものは小さく、ありきたりの山寺といった感じ。

大野寺前に流れる宇蛇川支流。正面の山肌に大石仏が掘り込んである

ここでキャンプをしていたグループが雨のため狭苦しいテントの中で小さくなっていた。
折角のキャンプも流された感じだ。お互いに可哀そうでもある。

ここから室生寺まで一本道。しかし、道は平坦だがなにせ山道、さらに自動車がやたらに通って、その都度泥水を浴びせられふんだりけったりである。
二人は最早全身ずぶぬれでもあり何とも思わない(@_@;)

この道はわずか7Kmあまりであるが景色に変化がないため、非常に長く感じた。

16:30>室生寺到着
雨のためかあたりは薄暗くさえあった。入口の太鼓橋のまえに自転車を置いて中に入る
しかし、時刻がちょうど閉寺の頃だったので金堂や宝物殿は見られず、五重塔だけ見る

うっそうと茂った草木になかから優雅な姿が二人の前に現れ、思わず目を見張った。
薄暗かったので写真もあまり期待していなかったが、カメラマンの腕がそれをカバーした
(ほんとうです(●^o^●)

 

車まで戻って帰り仕度をしていると、土産物売り場の女性が頼みもしないのにお茶をいれてくれた。冷えた身体ににはなによりで、うまかった。

17:00出発
これから約19Kmを18:00頃までには走りたい。が、ちょっと無理か?
泣き言言ってる暇はない、前進前進!

今来た道を引き返し、18:00に国道165号にたどりつく。これから名張まで11.5Km。
空腹などに神経使う余裕はない。池田君を無視して無中で走る。

雨脚は一向に衰えず、飢えと寒さと疲れが一層激しく襲いかかる。
ようやくにして名張市の標示が目に入りほっとする。が、池田君の姿は全く見えず。
繁華街の入り口の橋の上で彼を待つ>19:30

これからがもっと大変である。寝所を搜さなければならないからだ。
お寺にお願いしたがお盆でどの部屋もいっぱいとのことで断られる。
旅館に泊まろうともしたが、それでは当初の目的に反するので是が非でも小屋を見つけなければならない。運よくお堂があったので近所の人に頼んで一晩そこを借りることにした。お堂を貸してくれたのは、慈悲以外の何物でもないと思う。二人の風采を見て断る勇気のある人は多分いないと思う。それほど二人は情けない身なりであった。

装備をお堂に運び込み、身体を洗い、下着を全部取り換え、トレパンで冷えた体を温めようとした。ここで初めて池田君の持ってきたロウソクが役に立った。
晩飯を食べないことにはどうにも落ち着けない。軽く小ビンで乾杯して高いレストランのハンバーグライス食べる(@250円)

そういえば今日は終戦記念日。特集番組で過去の歴代首相の思い出を放送していた。
平和な夜であった。誰とはなしに感謝の気持ちがこみ上げてくる。

今日の道程を振り返ると、後半は池田君を無視し、一人旅のような気持ちで走り続けた。池田君のペースに合わせていたら、当初の目的は達成できない。
敵はあまりにも強く、偉大な存在である。敵とはもちろん「二人の肉体と精神の限界」である。池田君も自分と同じ気持ちで走ってきたと思う。なぜなら彼も全く強かったからだ

明日は今日よりもっと辛い日になるであろう。青山高原を自転車で超えるのであるから
10:00>就寝

1966年8月16日(火) 曇り 時々 雨  79Km

6:30>起床、雨は止んでいたが安心できない空模様であった。

7:30>装備はここにおいて赤目四十八滝へ
四十八滝は名張川の支流丈六川の奥深くに位置する。
正直、滝にはあまり期待していなかった。しかし、幽境に細く、あるいは激しく、あるいは静かに流れる様子はたとえようもない美しさであった。

今回の旅で自然の美しさを最も感じたのはこの滝であった。
大雨により多少水かさは増していたが、その落下の迫力は勇壮そのものであった。
いろいろな形に変化した滝が大自然によって創られたことに驚嘆した。
全部の滝めぐりをする余裕はないので入口近くの2,3(行者滝、不動滝など)を回った

ここで撮ったフィルムはなぜか残っていなかった。駄目になったのでもなく、全くないのである。フィルムを装填せずに撮影していたようだ(@_@;)誠に残念!

季節的には秋の紅葉の時期が最適では思った。紅葉する山の間を細く流れ、激しく落下する滝、この取り合わせは考えただけでも興奮する。
また、バンガロー村やキャンプ場などの施設も整っていることから、是非もう一度、ゆっくりと来たいものだ。

写真がないので、脳裏に焼き付けた滝の様子をアルバムの1頁に描く。

去りがたい気持ちでいっぱいだったが、まだ先は長い。

帰りは赤目四十八滝入口にある「延寿院」に立ち寄る。

土産物店でアイスクリームを食べ、お土産に木の根っこで作った「牛セル」を買った。

品物は44年たった今でも残してあった(収納庫の奥にぶら下がっていた)
煤けてはいたが、これを乾いた布でほこりを落すと光沢が出てきた(●^o^●)
改めて写真を撮る(2010年6月25日)

左下にタバコを差し込む穴がある。
右上が吸い口で、その近くに白い文字で「赤目」と書いてある。

タバコを吸わない私が、何でこんなものを買ったのか不思議である。

雨はどうやら止んだようだ(^J^) 薄日が差してきた。
名張に戻ったのは10:00頃であった。急いで出発準備。
いつ雨が降り出すか解らないので寝袋だけは濡れないようにビニール袋に終い、荷台に縛り付ける。また、ビニールはいつでも取り出せるよう短のところに入れ10:30出発

駅前の売店でパンと牛乳の軽食を摂る。

今日は久しぶりに暑くなりそうだ。
雨上がりの大地から立ち上る、ムシムシの湯気とともに!(−−〆)
市街地を外れると再び荒れた山道だ!泥んこで、坂道ばかりとなる。
これが最後の試練になることを期待して気持ちを引き締める。

国道165号は国道とは言え、あまりにお粗末な道路だ!小型車がやっと通れるほどの道幅しかないところもある。12:00頃、オアシスのような街並みに入った。
ここが青山町だった。昼食はもう少し先で食べることにして走り続ける。

この間2日ぶりで少し汗を出し、雨でぬれた身体から水分が抜けて、身軽になったように感じた。汗をかくということは本当に素晴らしいことだ!
これから青山高原に向けて最後の難所を走ろうとしている。決意を新たにする!

道は雨で流され、石ころが露出し、山肌からあふれた水がドードーと流れ出ていた。
あまりにひどい道のため、加えて昼食前でもあって、以外に早く限界が来た。
坂道も一つや二つなら頑張って登れるが、それ以上は最早、無理であった。

やっとの思いで近鉄西青山駅に着いたが、駅付近の売店はシーズンオフのため閉まっており、食事をすることもできない。小休止のあと再び自転車を推して進む。
この辺りからペダルを踏む気力もなく、ただ泥沼のごとき道を歩くのがやっとであった。
それでもまだ自動車道路であるからマシである。とにかく、ぜいたくは言えない。

尽きることのないダラダラ坂を無言で、無心で、孤独にペダルを踏む。
前方に道標が見える(^J^)、”二人の苦しみを和らげてやろう!これからは楽に進めるぞ!早くここまでおいで!”などと呼びかけているようであった。

道標を見て仰天!谷底に突き落とされたようなショックだ!
道標には「津へ27Km」と書かれていた。そろそろ目的地かと思いきや青山峠はこれからであった。ガックリ(−−〆)

しばらく休んだが、ぐずぐずしてはおれない。道を左に折れ、本格的な山道に入る。
自動車も通らない、人だけが通れる道である。雨によって2,3日前に作られたような、そんな道であった。人の頭ほどの石ころがゴロゴロ転がっており、洗い流された道一面に広がっている。何度も足をとられ、車を支えるのが精一杯であった。

やっと峠の頂きらしき場所にたどりつき小休止。白山町の標識がなんとなく立っていた。腹が減ったので何か食べるものがないかとあたりを見渡す。と、野イチゴが目につき、もぎて食べる。

下りの道も登りの道と同じく、石ころだらけであった。従ってスイスイとは進まない。
笠置山で体験したブレーキを握る手の、あの痛みは今度ほうがもっとひどかった。
およそ道といえるものではないからだ。パンクしなかったことが何よりの幸いだった。

石ころの一つ一つをゴトンゴトンと乗り越えながら、また、ある時はあふれた雨水が道いっぱいに流れ出る中を船に乗っているような気分でゆっくりゆっくりと進む。
手や腕がしびれるように痛くなり、その感覚さえなくなりかけたころ、少しずつ道がよくなっていることに気がついた。石や岩ばかりではなく、砂のある道に変わっていた。
人が住んでいそうな、そんな気配を感じた。思った通り畑が現れ、子供が歩いている。

小さな山間の村であったが、やっと休むことができる。時は14:30を過ぎていた。
池田君は安心したのか、空腹の度が過ぎたのか自転車もろとも横に倒れ、溝に落ちた
疲労によって身体の電脳姿勢制御装置が一瞬、狂ってしまったようだ。無理もない。

少しでも腹に入れ体力をつけねばならない。しかし、疲労困憊状態では喉を通らない。
少しずつ何回にも分けて食べることしかできない。
食堂が見つからないので菓子と牛乳で我慢。少し休んですぐに出発。
ここから津まではまだ20Km以上あると村人に聞かされビックリ!
山道をこんなに苦労して走ってきたのに、7Km程度しか進んでいない。改めてガックリ

ただ、道は今までとは雲泥の差で良好だ(^J^)
舗装はされていないが、石ころのない砂利道で、二人にとって何よりの救いとなった。
今まで道というものにあまり関心を持たなかった。空気のように、太陽のように、あまりにも身近すぎてその存在すら忘れかけていた。

道は人間の生活において、文明の発達において欠くことのできない重要な存在である。
道は人間が作っている。あらゆる事柄はまず道を築くことから始まる。そしてその道の出来不出来が将来を決める鍵となる。りっぱな優れた道を作らなければならない。
それが我々に与えられた使命である。
よい道を築くことは、よい人間を作ることに置き換えることができると思う。

これからの道は比較的平坦で、変化に乏しかった。そのためかずいぶん長く感じた。
川に沿って桜並木の下を進み、橋を渡るとまた雨が激しく降り出した。
もうすぐ久居町に至る。そしたら大休止といこう。とにかく休みたい!本当に疲れた!
池田君はずっと後方から追ってくる。彼もきっと同じことを考えていることだろう。

繁華街を左に折れ少し進むと、近鉄久居町駅前に出た>16:00
自転車を広場に置き、早速うどん屋に入り、きしめんを注文。
ところが食べ終わって気分が悪くなる。疲労のためかと思ったが、そうではなかった。
実は今日はBig Toilet の世話になっていなかった(@_@;)
腹の中がスカっとして爽快そのもの。さーーーて出発だ!

津まで約5Km。足は重いが、心は軽い。目的の大半は無事通過した(^J^)
前方に道標が見えてきた。”津市”と書かれている。
通ったことのある、両側にグリーンベルトの広い通り、国道23号だ!万歳\(^o^)/
やった!やった!とうとうやった(^o^)/
勝ったぞ!勝ったぞ!この苦しさに、自分に勝ったのだ!

二人は今までの疲れも吹っ飛んだように快調に走った>17:00
しばらくは感無量で夢中に走った。
これまでの血のにじむような堪忍が解放されて、すばらしい気持ちが生まれた。

ますます快調に走る。ほとんど疲れは感じない。
気持ちの持ち方でこんなにも体調が変わるとは驚きである。
しかし、池田君はずっと後方だ!やむなくペースを落とす。まだ、安心はできない。
これから今日の宿泊地「鼓ヶ浦」までは18Kmあるからだ。

池田君を無理やり引っ張って走り続ける。右手は海岸線だ、休もうと思えばいつでも休めるが、力の限り計画を成し遂げたいのである。懸命であった。
交通量も多く、危険度は高い。しっかりハンドルを握っていなければ・・・
同じようなスタイルの旅行者が悠然と追い越していく。しかし、二人は今のペースを守るのが精一杯である。

18:00>やっと海水浴場の入口に達した。やれやれ、これで今日一日が終わる。
しばらく海岸に立って荒れ狂う海を眺めていた。泳いでいる者が一人もいない海は二人の苦しさを吹き飛ばすような豪快な波しぶきを立てていた。

さて、どこをネグラにしようかと辺りを見回しながら歩き回る。
ふと、県営臨海ハウスの立札が目に入る。そこには、一般室一晩200円、特別室900円とあった。200円なら安い、ここに泊ることにする。
管理人のおばさんに頼むと我々の自転車旅行に感心して、「今日は泊り客が一人もいないので大サービスで2階の上等な部屋を200円で泊めてあげる」という。
全くの幸運であった。喜んで、有り難くご厚意を受けることとした。

最後の夜ということで盛大な食事を計画し、池田君が買い出しに出かけた。
その間にコンロの支度をし、シャワーを浴びる。2日間の汗とほこりを石鹸できれいさっぱり洗い流す。

さていよいよ食事だ!思えば今日は朝から腹応えのあるものは何も食べていない。
朝はパンと牛乳、昼はクラッカーと牛乳、途中、うどん一杯。これで79Kmよく持ったものだと我ながら感心する。最後の乾杯。そして、しばらく動けないほど腹一杯食べた。
疲れてるはずであるが食欲は旺盛であった。

注釈>2010年6月25日追加
ただ、「腹一杯食べた」というが、食材を買いに行った池田君が何を買ってきたのか、何を調理したのか、ご飯は炊いたのか、などなど肝心の献立が当時の旅行記には何も書いてなかった。何という不手際であろうか(−−〆)

ここにアルバイトで四日市から来ている男がいた。この男は(正体不明人間)二人の計画とこれまでの実行力に感銘してしきりに羨ましがっていた。
この男は私と同じような信念を持っていたので、たいそう気が合ってしまった。

彼曰く、「登山家はなぜ山に登るのか?、という質問に対して、「そこに山があるからだ」という。こんな曖昧な漠然とした態度で山登りするのは自然に対する冒涜であり、このような考え方で山に対処するから事故が絶えないのである。自分の体力と精神力の限界を知るために挑戦するのであるから、何も登山でなくてもよいのである」、と。
全く同感であった。

大自然を甘く見るのは危険である。その道の達人であってもだ!
また、奢りや惰性で立ち向かうことほど危険なことはない。これは人生でも同じだ。
人生路は大自然と同じくきわめて変化に富んだものであり、従って絶えず新鮮な気構えで、訓練し続けねばならない。惰性に走るのはもってのほかである。

夜はこの町で盆踊り大会があるとのこと。彼は夜の海水浴場を警備する「ふくろう部隊」の一員でもあり、夜になるとにわかに忙しくなるという。
彼の案内で盆踊りを見に行く。懐かしいからだ!自分の町では最近廃止された。
若者が都会に流出したためである。

自分の子供の頃の夏休みの最大の楽しみは海水浴と盆踊りであった。
今の盆踊りは曲もテンポが早くなり、昔のような情緒がなくなっていると思う。
やはりハイテンポにしないと、子供たちにアピールできないのであろう。
気になったのは、”オバQ音頭”をやらないと子供が集まらないことだ。
ここにも時代の変化が感じられる。

1966年8月17日(水) 曇り 時々 雨 のち 晴れ  53Km

7:00>起床<朝食は昨晩の残りを食べる。

8:00>出発

昨夜、よくしゃべった彼が四日市から自転車で、毎日約1時間ほどで通っているということを聞いたので、自分はどのくらいかかるかその記録に挑戦した(但し、彼は空車である

追分まで約12.5Kmである。最初からハイピッチで走り、池田君の存在を無視した。
その結果、思いもよらぬほど早く着いた。所要時間32分(時速は約25Km)であった。
空車ならもっと早く着いている。池田君は5分遅れで到着。ちょうど牛乳店の前だったので小休止して牛乳を飲む。汗の後の牛乳もまた格別であった。

ただ、自転車を下りてもしばらくはペダルを踏んでいるような感覚で、足が上下に振れている。それとまともに真っすぐ歩くことができなかった。足が地に着かないのである。
小休止の後、今度はゆっくり進む。しかし、自転車に乗ると人格が変わってしまうのか、はたまた歩く時よりしっくりいくのか?不思議と足に力が入り、スピードを上げてしまう。
名四国道に入るべく国1を右に折れる。四日市駅前通り着9:00

四日市の走行では公害の事実を体感した。四日市の公害問題は新聞テレビなどで報道されており、知るところであったが遭遇してみるとなるほど凄まじい限りであった。
鼻にツンと感じたと思うと、眼がチカチカして、喉がヒリヒリ、深く呼吸をするものならたちまちむせてしまう。特に自転車に乗って坂道を登る際は全く苦痛であった。

これではこの付近の住民の呼吸器が正常に働くはずがない。徐々に心肺機能が劣化して少しの運動にも耐えられない弱弱しい肉体となる事は火を見るよりも明らかであった。
まるで墓場みたいだ!大小の墓石(煙突、タンクなどの林立)に線香(排煙)の煙がたちこめているが如き様相である。この町には何かが欠けている。

雨が降り出した。夕立であろう、ほっとけ!!最早、濡れることなど屁でもない。
途中猛烈に降りだした。月ヶ瀬で経験したと同じ状況だ!
たまりかねてガソリンスタンドに駆け込んだ。同じようなグループが2組雨宿りしていた。
一組はツイン車であった。

長良、木曽両川を越すと料金徴収所があった。自転車の通行料20円であったが係員が採りに来ないので激しく降る雨の中に飛び出した。

雨が上がって太陽が顔を出し、蒸し暑くなってきた。この道路は川が多いのかやたらに橋が多い。橋は道路より高くなっているので、その度に苦労しなければならない。
それにしても橋が多い。更に橋以外の場所でも道路全体が盛土してあるので、風をさえぎるものがない。風に逆らって絶えず全力疾走しないと止まってしまう。
少し頑張ってスピードを出しても風の抵抗で惰力がつかない。泣きたくなってしまう。

見えてきた(^o^)/名古屋南のシンボル、火力発電所の煙突4本が!
もうすぐそこだ!手に取るほどの近くに目指す地がある。
それにしても口がカラカラだ!暑苦しく、足が鉛のように重い!

どこかで水分を補給しないと、ぶっ倒れてしまう。
沿道に氷屋はないかとキョロキョロしながら・・・・・オッと危ない^_^;
飛島村に運良く食堂が見つかり、「氷」の垂れ幕が目に入った。
自転車を下りると、一瞬目まいがして気分が悪くなった。

無性にお茶が飲みたくなった。食堂には冷えた麦茶が大きなやかんに入っている。
まずはお茶を5杯飲む。飲んでも飲んでもきりがないほど飲める。喉がカランカラン!
氷を注文して一息つく。この時の氷の味は生涯忘れることはない。
イチゴの香りと、そのとろりとした甘さが喉をゆっくりと下りて、疲れた身体に浸みわたる

あまり長く休むと動くのがつらくなる。ここいらで出発だ!

再び(これが最後になるだろう。もう「再び」という言葉を使うことはない)、風と太陽と疲労に向かって鞭打たねばならない。ここで負けるわけにはいかない。
目標とする4本の煙突がはるかに望めるが、いっこうに近づいてこない。
苦闘する二人には、逆に遠ざかっていくように見える。
それでも、少しずつではあるが、名古屋のざわめきが感じられるようになってきた。

11:30>木下自転車店に到着

予定より3時間早かった。二人とも疲労困憊状態であったが、とにかく無事に帰ってきた
今はその喜びでいっぱいである。店の店主は大喜びで早速、砂糖水を出してくれた。

計画をほぼ100%実行した。苦しい時もひるまず忠実に計画を履行してきた。
感慨もひとしおである。無事帰還したことを知らせるため、会社に電話する。
電話に出たのは齋藤さんであった。

「二人とも無事、ただ今戻りました。身体は多少ガタついていますが、とにかく無事です。
すこし休めば使い物になるでしょう」と(●^o^●)

今回の自転車旅行が成功したのは、多くの暖かく・優しく・心のこもった、もてなしの御蔭である。ここに改めてお名前をお聞きせず失礼した方々に心から感謝いたします。

今回の試みがこれほど苦しいものとは考えてもみなかった。
道程は計画にあっても、実際の体験は計画にはなかったのであるから。

この旅行は自分に偉大な力を与え、収穫をもたらした。
これからの長い人生において貴重な体験として永久に残るものである。
この旅行で得たものは、人生における「主張と実践」の大切さであった。
この経験を無駄にせず、自分の人生に活かさなければならない。

1966年9月20日(火)午後11:30

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